自由民権運動を主導し、自由党を設立した人物「板垣退助」。「庶民派」の政治家として国民から圧倒的な支持を受けていた政治家です。かつては百円札の肖像としても知られていました。現在も学校の歴史の授業で、名前が必ず出てくる人物として知られています。
板垣死すとも自由は死せず
彼の「板垣死すとも自由は死せず」という名言は、一度くらいは耳にしたことがあると思います。
これは、明治15年(1882年)4月、岐阜の自由党懇親会で暴漢に襲われ短刀で刺されたときに刺された言葉として知られていますが、実際は近くにいた板垣の同志が叫んだもので、それが誤って記者に伝わり報道されたというのが真相だとか。
自由民権運動を主導した板垣退助
俗に「岐阜事件」ともいわれるこの事件。板垣を刺したのは、相原 尚褧(あいはら なおふみ)という28歳の青年で、組織も持たない単独犯でした。
相原は、政府の御用政党であった立憲帝政党を作った福地源一郎の主宰する『東京日日新聞』の熱烈な愛読者で、民権思想を唱える退助が許せず、暗殺の機会を狙っていたといいます。
事件の後、相原は無期徒刑(無期懲役)の判決を受け、北海道の集治監に送られ、北海道開拓の強制労働に従事させられましたが、監獄内での評判も良く模範囚だったため、憲法発布の大赦で出獄しました。
相原は板垣に謝罪するため、すぐに上京
相原は板垣に謝罪するため、すぐに上京し、板垣の元に赴きます。板垣も快く相原に面会し、「君の行為は国を思う気持ちからやったことだから、俺は咎めるつもりはない。けれど、実行に移す前に俺をよく観察していなかったのは残念だ。そうすれば、国賊でないことがわかったはず。もし今後、俺が国家に対して害ある人間だと思ったときは、また襲えばいい」と寛容な態度で受け入れました。
船から海に転落
相原は何度も頭を下げ、「今後自分は北海道の開拓に一生を捧げるつもりです」といって辞し、伊勢四日市から汽船に乗って北海道に向かいましたが、遠州灘を通過するあたりで消息を絶ちました。どうやら船から海に転落したようです。
板垣が襲われた地に建つ板垣退助遭難の地碑
後に板垣が監修した『自由党史』には、「相原は板垣に会い、良心の呵責にたえかねて自殺した」とか、「博徒によって金品を奪われ海に投げ込まれた」とか、「相原の悔悟を知って、襲撃事件の教唆者が秘密を暴露されるのを恐れて口を封じた」といった諸説を列記しています。
相原の不可解な死は、その後解明されることもないまま、ほとんど忘れ去られようとしています。
時代の荒波に翻弄され、時代の荒波によって消えていった哀れな生涯だったといえるかもしれません。
板垣退助