戦国時代で無能な人物と言えばと聞かれた時に一番思い当たるのが今川氏真(いまがわ-うじざね)かもしれません。
父が「海道一の弓取り」と言われ、武田信玄や北条氏康と肩を並べた今川義元でしたので、そのことが無能であることに拍車をかけた要因でもあると思われます。
しかし見方を変えれば、氏真は無能ではなく有能であることが判明しました。今回は氏真が有能であることを証明する3つの要素を紹介します。
和歌が大好き
氏真は異常なほど和歌に傾倒していました。まだ今川家が滅びる前は領内で連歌会を催し、公家たちとも交流を行っていました。
氏真は詩歌に通じていた太源雪斎に和歌の指導を受けたとされており、技法に関しては冷泉為益より指導を受けました。
そして徳川家康の配下になってずいぶん経った天正19年(1591)、氏真は京都へ移り住みます。京都では公卿の山科言経や公家で歌人の冷泉為満(為益の子)と交流し、定期的に催された和歌や連歌の会に参加していました。
そのように和歌に情熱を注いだ結果、生涯で1658首の和歌を後世に残しました。
また、御水尾天皇が選定した和歌集『集外三十六歌仙』に氏真は名を連ねています。『集外三十六歌仙』とは室町から江戸時代初期の歌人を三十六歌仙にならって取り上げたものです。
蹴鞠の腕は天下一品
氏真の蹴鞠は相当なもので、天正3年(1575)には氏真のことを聞きつけた織田信長の前で蹴鞠を披露しています。
父の仇の前でという状況で氏真はどんな思いだったかは、記録にないので残念ながらわかりません。しかし、取り乱さずに蹴鞠を披露したのは文化人としてのプライドがあったのではないかと思います。
氏真の蹴鞠は蹴鞠を家業としていた一族の宗家、飛鳥井雅綱(あすかい-まさつな)から指導を受けていたとされています。
子孫たちは高家に
戦国時代には通用しなかった氏真でしたが、江戸時代になると氏真の子孫たちは幕府に重宝されます。
和歌や蹴鞠など公家文化に精通していたこともあり、朝廷や公家を接待する役職である高家に抜擢されました。
そして、子孫たちは幕末まで家名を残すことになります。後の世で自分の子孫たちが重職に就いて家名を残していたことを知ったら、氏真は泣いて喜んでいるかもしれませんね。
最後に
文化人として生きてきた氏真にとって戦国時代は合わなかったと言わざるを得ません。
氏真の辞世の句で『なかなかに 世をも人をも 恨みまじ 時にあはぬを 身のとがにして』(世も人も恨むことはない。この時代に合わない自分の身のせいなのだから)と詠んでいたので、戦国時代は自分に合っていなかったことを氏真自身自覚していました。
もし氏真が戦国時代には生まれていなかったら、無能のレッテルは貼られず、公家文化に精通した文化人として有能のレッテルが貼られていたと思います。
生まれる時代は自分では選べないので、何とも言えないですね。
参考:長谷川ヨシテル『ポンコツ武将列伝』