都内の、誰もが知っているあの場所、この場所…。江戸時代はまったく違う雰囲気だったということが多いです。まずは、お台場からみてみましょう。
お台場というと、お台場海浜公園、フジテレビ、レインボーブリッジ、パレットタウンなどレジャースポットがいっぱい。ゆりかもめや水上バスに乗って、東京湾の海風を楽しむのも、ウォーターフロントエリアならでは。週末になると、家族連れや恋人たちで賑わっていますよね。ところが、かつてのお台場は、レジャースポットではありませんでした。
2代 歌川広重「品川沖汐干狩之図」
黒船の再来に備えて?!
元々、台場は黒船来航をきっかけにつくられたのです。嘉永6(1853)年、アメリカのペリー監督率いる4隻の黒船が浦賀沖に姿を現しました。これは、日本にとっておそらく衝撃的な出来事だったはず。
黒船が退去した後、幕府は江戸を守るため、品川沖に御台場(砲台)を築いて、江戸湾周辺における諸大名の配置を定めて、黒船の再来に備えたのです。そして、翌年再び黒船が来航しました。今度は、7隻です。そして、日米和親条約が締結することになります。
品川台場に設置されていた80ポンド青銅製カノン砲(遊就館蔵) Wikipdeiaより
その後、横浜が開港し、外国との貿易が始まったのですね。つまり、日本に西洋文化がもたらされたのです。ちなみに、はじめ台場は11か所計画されていました。しかし、実際のところ5つの台場しか作られなかったとのこと。台場は、江戸を守るために作られた場所だったのですね。
吉田松陰も関連人物だった
吉田松陰像
江戸時代の思想家で教育者の吉田松陰も、黒船を目撃していたんですって。長州藩士だった吉田松陰は、二度目の黒船来航のときに、そっと軍艦に乗り込んで、海外渡航を企てました。しかし、残念なことに見つかってしまったのでしょう。やむなく失敗してしまいます。そして幕府に自首して、萩の獄舎に収監されてしまうことに…。
出牢後は、叔父の松下村(しょうかそん)塾を引き継いで、多くの武士を輩出したのです。高杉晋作や伊藤博文も、武士のひとりでした。
今度、台場を訪れることがあったら、江戸時代はここに砲台があったのね、と思いを馳せてみるのもいいかも?