出羽国米沢藩9代藩主・上杉 鷹山(うえすぎ ようざん)は、領地返上寸前の米沢藩再興のきっかけをつくった人物で、明治時代のキリスト者・内村鑑三の『代表的日本人』のなかでも取り上げられているほどの名君です。
あのジョン・F・ケネディも尊敬する日本の政治家として名前をあげるほどでした。
そんな彼の名君ぶりを示すエピソードが、米沢西郊の遠山村(米沢市遠山町)のヒデヨという老婆が嫁ぎ先の娘に宛てて書いた手紙と足袋とともに、宮坂考古館(山形県米沢市)に残されています。
老婆の農作業を手伝うお殿様
手紙が書かれたのは安永6年12月6日(1778年1月4日)。それによると、ある日、ヒデヨが、干した稲束の取り入れている作業中に夕立が降りそうになり、手が足りず困っていたそうです。ところが、そのとき偶然通りかかった2人の武士が手伝ってくれたおかげで作業が予定通りに終わったそうです。
当時、遠山村では、取り入れの手伝いには、お礼として刈り上げ餅(新米でついた餅)を配るのが慣例だったため、ヒデヨが餅を持ってお礼に伺いたいと武士達にいったところ、殿様屋敷(米沢城)の北門に(門番に話を通しておくから)といわれたそうです。
そこで、ヒデヨがお礼の福田餅(丸鏡餅ときな粉餅の両説あり)を33個持って伺ってみると、通された先にいたのは藩主鷹山だったそうです。取り入れ作業を手伝ってくれたのが、お侍どころかお殿様であったので、ヒデヨは腰が抜けるばかりにびっくりしたそうです。鷹山は、ヒデヨの勤勉さを褒めたたえ、褒美に銀5枚を授けたそうです。
手紙は、その御恩を忘れず記念とするために、家族や孫たちに特製の足袋を贈ることにした旨が書かれています。
困った庶民の目の前で、お忍びの殿様が庶民を手助けする話はよく語られますが、このようにお忍びの殿様が実際に庶民の手助けをした確かな証拠は、他に残されていません。
手紙原文
一トフデ申シ上ゲマイラセ候アレカラオトサタナク候アイダ
タツシヤデカセキオルモノトオモイオリ候
オラエモタッシャデオルアンシンナサレタク候
アキエネノザンギリボシシマイユーダチガキソウデキヲモンデイタラ
ニタリノオサムライトリカカツテオテツダイウケテ
カエリニカリアゲモチアゲモウスドコヘオトドケスルカトキイタラ
オカミヤシキキタノゴモンカライウテオクトノコト
ソレデフクデモチ三十三マルメテモツテユキ候トコロ
オサムライドコロカオトノサマデアッタノデコシガヌケルバカリデタマゲハテ申シ候
ソシテゴホウビニギン五マイヲイタタキ候
ソレデカナイヂウトマゴコノコラズニタビくレヤリ候
オマイノコマツノニモヤルカラオトノサマヨリハイヨーモノトシテダイシニハカセラレベク候
ソシテマメニソタテラルベククレグレモネガイアゲ候
十二かつ六か
トウベイ
ヒデヨ
おかのどの
ナホ申シアケ候マツノアシニアワヌトキワダイジニシマイオカルベク候
イサイショガツニオイデノトキハナスベク候
上杉鷹山(うえすぎ ようざん)
宮坂考古館
参考:Weblio 上杉治憲_老婆の手紙
宮坂考古館