平安時代中期の書家として知られる藤原行成
白氏詩巻(国宝)
平安中期、小野道風・藤原佐理と並び「三蹟」と称された能書家である藤原行成(ゆきなり・こうぜい)。後世には、彼の家の書法は「世尊寺流」ともてはやされました。その書法は流れるようで優美。行成は和洋書道の立役者でもありました。
さて、書道の世界では行成の名を知らない者はおらず、もちろん一般にも教科書などに「三蹟」のひとりとして載っているので認知度が高い行成。実は、書道以外にも才能を発揮した人物でした。
沈淪の少年期
摂政・藤原伊尹の孫として生まれた行成は、そのまま順調にいけば出世コースまっしぐら。摂政の孫、しかも嫡子だったので、そのまま祖父から父、そして自分へと政治のトップの座は引き継がれていくはずでした。しかし祖父・父の相次ぐ薨去によってその道は絶たれ、政治の中心は遠のきます。
後ろ盾を失った行成はかなり沈淪した少年期を送りました。伊尹の家系はとくに早世が多く、呪われているのでは、と言われたほど。親の早死にが運を左右してしまう時代です。
一条天皇・藤原道長の橋渡し役として活躍
不運だった行成にも運が巡ってきます。友人の源俊賢の推挙により、時の天皇・一条帝の蔵人頭に。蔵人頭といえば天皇の側近です。
ここから彼は側近として権力者の信頼を勝ち得ていきます。
蔵人頭として、一条天皇、そして時の権力者である藤原道長の信頼を得ていた行成。ふたりの橋渡しとして一番有名なエピソードは、一条天皇の東宮、つまり次の天皇をめぐる問題です。
そのとき、一条天皇には中宮定子が産んだ敦康親王、中宮彰子が産んだ敦成(あつひら)親王が東宮候補としていました。そのときすでに中宮定子は亡く、定子を寵愛していた一条天皇は敦康親王を次期天皇に、と推します。しかし一方では、外祖父として権力を握るべく、道長が敦成親王を推していました。
行成、一条天皇に進言する
道長から、一条天皇に敦成親王を推すよう命を受けていた行成は、一方で一条天皇にも信頼され、敦康親王の後見として期待されている側近です。要するに板挟みの状態。
しかし行成は道長の命を優先。過去の天皇の例を持ち出し(光孝天皇)、敦成親王の東宮擁立を進言したのです。もっとも信頼する行成に諭された一条天皇は敦成親王への譲位を決定するのです。
この一件にまつわるエピソードは、行成の日記「権記」の寛弘8年5月27日の条に長々と綴られています。行成がどれほどこの件に苦心し、あちこちを奔走していたか、「権記」からよくうかがえます。
行成の進言によって敦成親王が天皇(後一条天皇)となり、藤原道長は外祖父として権力を盤石なものにしました。まさに行成の尽力あってこそ。能吏としての才能を窺えるエピソードです。