奥多摩にある百名山の一つ「雲取山」をご存じですか?標高2017m、東京都では一番標高が高い山で、山小屋かテントで一泊を推奨される、やや奥深い山です。
その雲取山。鴨沢登山口という所からのぼると、「将門迷走ルート」なる看板が見えてきます。
迷走…と聞くとちょっと道迷いしてウロウロしちゃったなんてドジな姿を想像してしまったのですが、次々現れる看板を読み進めると、その壮絶さにどんどんせつなくなってきます!
平将門をおさらい
「平将門島広山討死の場」国立国会図書館
将門といえば、京都から首が飛んでいったとか、その首が落ちたという首塚をGHQがを移動させようとして祟りにあったとか、たくさんの伝説が残っていますね。
教科書では935年の「将門の乱」が有名ですが、それでも思い出せない人のためにざっとおさらいします。
将門は桓武天皇の血を引く武士(つわもの)で、現在の茨城県常陸市を本拠に勢力を伸ばしていた豪族でした。やがて伯父の平国香や源護と土地争いなどおこし、結果的に朝廷に弓引く形になってしまいます。関東を独立した国にしようと「新皇」を名乗り、朝廷からは逆賊・朝敵とされ真っ向対決する身に。
そして征夷大将軍に任命された藤原忠文、奥州藤原氏の祖先である藤原秀郷などに追われ、あえなく討たれて京都でさらし首になりました。
雲取山へは、春の収穫のため兵を国元へ帰さざるをえず、軍勢が手薄になったときに追い込まれ、各地を転戦した時にやってきたようです。
悲劇を伝える看板は12個
看板は12個あり、立てられたら場所の地名や名称を伝えています。将門一行は鴨沢登山口から七ツ石山という小ピークを越えて、雲取山を目指したようです。しかし看板は途中で終わっており、彼らの最終目的地がどこだったのかはわかりません。
その看板をざっとたどっていくと…
- お祭りと鴨沢の福寿寺…将門一行が近隣の住民も交え三日三晩お祭り騒ぎをしたことから「お祭り」という地名がついた。近くの福寿寺で正室の紫の前が体を休めていたが、酒宴の最中に敵が近くに来たことを知り、再び七ツ石へ向かい始める。
- 釜場(かんば)タワ…ここまでくれば安心と、一行が自炊する
- 小袖…将門は川で洗濯を始めたが、夕立に遭って小袖を置き忘れてしまう
- 茶煮場(ちゃにっぱ) …雨がやんだので、みなで一服する
- 風呂岩(すいほろいわ)…簡単な岩風呂を造り、体を休める。その後敵に見つからないよう打ち壊したが、その岩が白石となりその形を留めている。
- 堂所 …鎧を脱いで休む
逃げては休み、休んでは逃げる一行の緊迫感が伝わってきます。悲劇はここから始まります。
- 紫久保…正室の紫の前が突如自害!力尽きて、足手まといにならぬための決断だろう、と看板は伝えている。
- 七ツ石神社と七ツ石山…将門の影武者七人衆のわら人形を作り並べたところ、敵がそれを射貫いた瞬間、岩に変化したという。
- 大血川の悲劇…なんと家臣の妻や姫ら99人が一斉に自害してしまう。その血は七日七晩、川を赤く染めたという。故にここから流れ出る川を大血川と呼び、川に流れる川海苔は恨みがこめられた髪が変化したものだという。
- ちなみに大血川は雲取山の北に位置していますが、近くにはその99人の御霊を鎮める九十九神社(つくもじんじゃ)もあります。
生きるか死ぬかという瀬戸際で、もう一歩も歩けないという状態の姫たちの絶望がわかる気がします。七ツ石神社は朽ち果て、少し寂しい雰囲気を醸し出していました。
「青梅」の地名になった将門の句
突然の悲劇に将門の心も打ち砕かれたことでしょう。彼はその後、青梅の金剛寺に立ち寄り、茨城県の岩井で打ち倒されたとあります。
金剛寺で将門は「我願い成就あらば栄ふべし。しからずば枯れよかし」という句を残していますが、実はこの句が「青梅」の地名の由来になっているんですね。
どういうことかというと、梅の枝を地面に突き刺し「わが願いがかなわないならば枯れよ」と言ったわけです。するとこの梅の木の実は、おかしなことにいつまでも熟さずに青々としたままだったそうです。
そこから「青い梅=青梅」の地名がつきました。
結局将門は死んでしまったのですが、本拠とする茨城県までは帰り着きました。雲取山から茨城県まで適当に見繕って194kmもあります。
同じ関東での争いといえど、これだけ方々に逃げ惑ってまた本拠地へ戻るのは大変だったでしょう。そこまでの願いはかなったとみるべきなのでしょうか。
何にせよ将門は西からの圧政から解放してくれる存在として、関東の庶民には愛されたようで、青梅の近くにも将門という神社や交差点名、バス停などが残っています。また、東京屈指の人気スポット、神田明神にも厄災除けの神として崇められています。
奥多摩に残された将門伝説、あなたもその足で確かめてみてはいかかがでしょうか。