日本仏教における男色文化
日本の仏教では、古くから女犯(にょぼん:女人との性交渉を絶たねばならない僧がそれを犯して性交渉を持つこと)は罪とされていました。仏門に入れば女人との交わりを絶って修行をするのが僧侶のあるべき姿でした。
ところが、男性との交わりに関しては罪に問われず、僧侶と稚児(少年の修行僧)との男色(衆道)はある種仏教界の文化となって、近代にいたるまで続いていました。もともと剃髪しない元服前の少年修行僧を指す「稚児」という呼び名が、転じて「男色相手の少年」の意味でとられるようになったのも、僧侶と稚児の男色関係がいかに一般に広く根付いていたかを物語っていますよね。
日本では武士の世界においても武将と小姓との間に男色関係があったという例は数知れず、また江戸時代に流行した陰間茶屋(少年版の売春居酒屋・料理屋)の例を見ても、男色が世間で浸透していた文化であることがわかります。ごく最近まで同性愛などはタブー視されていたように感じますが、それは明治以降のこと。それ以前は意外と普通に受け入れられていた文化だったのです。
それほど日本の文化と切り離せない「男色」文化ですが、実は最初に日本に持ち込んだのは空海だと言われていることをご存知でしょうか?
のちの時代に「男色の開祖」と伝わる
江戸時代の儒学者・本草学者である貝原益軒(かいばらえきえん)は、「男色の戯れは弘法以来のことなり」と言っています。弘法とは「弘法大師」の名でも知られる空海のこと。つまり、のちの時代では空海が男色を広めた人物として伝わっていたことがわかります。
ただひとつことわっておきたいのは、日本における男色の始まりが空海であったというのは実際は間違いであろうということです。男色に関する記述はすでに「日本書紀」(720年ごろ成立)に見られます。「日本書紀」巻第九・神功皇后に「阿豆那比之罪」という言葉があります。
この言葉が登場するのが、小竹祝(シノノハフリ)と天野祝(アマノハフリ)の二人が同じ場所に合葬されたことで、昼も夜もなくなってしまったというエピソード。男が二人、つまり太陽が二つで、天下に二つの太陽があるというあってはならない状況をつくった罪を男色の罪と重ね合わせたような話で、これこそが日本最古の男色であったといわれています。
そういうわけで空海より以前に男色文化はあったと考えられます(そもそもこういうことは自然発生的に起こるものと考えられる)が、「日本書紀」では男色が禁忌とされていたこと、また日本仏教においても奈良時代の「四分律」という戒律では男女関係なく僧侶の「色欲」自体を戒めるものがあったというので、おおっぴらに歓迎されるべき文化ではなかったのでしょう。
そこで登場したのが空海です。空海が唐に留学していたころ、唐は空前の男色ブームだったとか。空海は密教を持ち帰るのと同時に唐ではやりの男色をも持ち帰ってきた、と言われているんです。
日本ではスレスレの行為だった男色は、中国ではブームになっていたわけです。空海がそれをそのまま持ち帰り、日本で「中国では普通のことだよ」と広めたのだとしたら、彼が男色ブームを日本にもたらしたというのもあながち嘘ではないかもしれませんね。