戦国時代を代表する武将の一人であり、ファンも多い武田信玄。戦国最強ともうたわれる彼ですが、そんな彼の一番の理解者であったと言われている板垣信方(いたがき のぶかた)について知っていますか?
そこで今回の記事では、そんな板垣信方について、有名なエピソードをご紹介したいと思います!
板垣信方(いたがき のぶかた)とは?
板垣信方は、武田家に信虎の代から仕え、嫡男である晴信(武田信玄)の傅役(もりやく:いわゆる教育係で、当主となる子どもの育成を担当しました)となりました。
武田信玄が家督を継ぐと、板垣信方は甘利虎泰とともに「両職」という武田家の最高職に命じられました。
なお、この二人は同じ職ではありますが、実際の立場では虎泰より信方の方が上だったと言えるようです。
信虎追放の中心に?
武田信虎が今川氏と甲駿同盟を結んだことをきっかけに、今川家と北条家の関係が崩れ、北条市が今川領に攻め込んできます。その一方武田家は信濃への侵略をすすめます。
天文10年(1541年)に信虎が今川義元のもとを訪ねた際、息子の信玄によって帰り道を封鎖され、甲府に戻れなくなってしまいました。これは信虎追放のクーデターですが、その中心となったのが信孝と言われています。
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彼が他の重臣たちを説得してクーデターを実現させたそうです。ちなみにこのクーデターの計画は極秘に進められていたと言われています。
実は野心家?板垣信方の性格は?
合戦にも強かった板垣信方ですが、その性格も野心家で、ややきつい面もあったようです。自分が武田氏を支えるという自信があり、それは上記の信虎追放のリーダー格となったことともつながっています。
武田信玄は、信方に警戒感も持っていたとも伝わっています。また、晩年の彼は傲慢さや軽率さが目立っていたとも言われています。
いかがでしたか?今回の記事では、板垣信方についてご紹介しました。この記事が、みなさんが少しでも日本の歴史や戦国時代に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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