国内外に意外とある!?海外がルーツの「お土産品」
ロシアの民芸品として人気のマトリョーシカは、元々は日本の箱根寄木細工の入れ子式人形をヒントに作られたことが知られています。
ロシアの民芸品マトリョーシカのルーツは日本の「入れ子人形」らしい
逆に日本を代表するお土産品の中にも、海外のお土産をもとに作られた物があったことをご存知でしょうか?
おそらく誰もが1度はどこかで見たことがある「鮭をくわえた木彫りの熊の置物」は、なんと大正時代にスイス・ベルンのお土産の熊の彫刻をヒントにして作られたものだったのです。
スイスの熊の彫刻にひらめいた八雲の農場主
木彫りの熊が「北海道の民芸品」となった背景には、当時の北海道の厳しい暮らしがありました。
北海道・八雲村(現在の八雲町)は、尾張徳川家17代当主の徳川慶勝が、明治維新のために職を失った家臣たちを入植させるべく国から払い下げてもらった土地でした。
しかしこの土地は冬の寒さが厳しい上に経済不況の影響も食らい、農民たちは非常に苦しい生活を余儀なくされていました。
そんな時、慶勝の孫でこの地域の徳川農場の経営者だった19代当主の徳川義親侯爵がヨーロッパ旅行に出かけ、その途中にスイスのベルンへ立ち寄ります。
そこで見付けたのが、土産物屋にあった熊の彫刻でした。
「これは土産物として良い!八雲の徳川農場から、これを始めよう」
そう考えた義親は、見本として木彫りの熊をいくつか購入し、持ち帰りました。
ハイクオリティの熊の彫刻で大成功!すっかり北海道名物に
現代なら、スイスで購入した熊の彫刻は、多くの人がそのまま転売するかもしれません。
しかし帰国した義親は、八雲の農民たちに熊の彫刻を作ることを勧め、「できあがった熊は1個1円で買い上げる」という試みを始めました。
当時の1円と言えば、現代なら4000~5000円に相当しますから、かなり破格の条件です。
1924(大正13)年には、木工品などの農村美術品を集めた品評会が行われ、手先の器用な地元の酪農家が作った「北海道産木彫りの熊・第1号」が初登場しました。これはスイス土産の熊と大差ないほどのクオリティの高さだったといいます。
それから1~2年もすると、熊の彫刻は物置にいっぱい集まり、函館や札幌などで販売するとすぐ売り切れるほどの人気となりました。
その後徳川農場には「農民美術研究会」が発足し、「毛彫り」「面彫り」などが確立され、「八雲の木彫り熊」ブランドは北海道だけでなく、本州でも人気を博すようになっていきます。
徳川義親が木彫りの熊を八雲に持ち帰って広めようと考えた理由は、寒さが厳しく農業が行えない時期の北海道の村民たちの「副業」として現金収入に繋げたいと思ったことと、「木彫り」を農民たちに浸透させて生活文化的にも豊かにしたいと考えたことでした。
熊の彫刻の制作者の中には、教師の初任給くらい稼ぐ人も現れたといいますから、そのどちらも結果的には大成功をおさめたことになります。
ちなみに鮭をくわえた熊の彫刻は、第二次世界大戦後に旭川で作られるようになったものなのだそうですよ。
参考