タブーに挑戦した「恋愛のレジェンド」
現代は「結婚するなら恋愛結婚が当たり前」と考える人が多く、「自分は恋愛が苦手・向いていない」という人は「どこか問題があるのでは?」「理想が高すぎる」と非難されることすらある世の中となっています。
さらに結婚相手との出会いも「出会い系サイト」「マッチングアプリ」などのインターネット上、または「合コン」や「街コン」だったという人が増加し、異性との出会いのハードルが下がっている印象を受けます。
(画像出典:ぱくたそ)
しかし、そんな風に男女の出会いの手段が多様化したのは、ここ最近のこと。日本には長い間、特に女性が恋愛をするどころか、恋愛の話をすることすら許されなかった時代があったのです。そんな恋愛がタブー視されていた時代に、激しく赤裸々な恋愛感情を詠んだ歌を集めた歌集を世に送り出し、賛否両論を呼んだ「明治の恋愛のレジェンド」というべき女流歌人がいました。
明治の女性の常識は「結婚=家の存続」
生き方の多様性が認められるようになったと言われる21世紀の現代にあっても、「結婚できない=恥」と考える女性は多く、アラサー世代以上の独身女性は「婚活」に時間と金銭を注ぎ込み、ストレスを溜め込んでいます。
明治時代は、女性にとってはもっともっと生きにくい時代でした。「結婚=家の存続のため」とされ、女性が恋愛を口にすることは、絶対に許されないことだったのです。
(画像出典:Wikipedia/与謝野晶子)
そんな時代に、歌人・与謝野晶子(旧姓・鳳)は大阪・堺市の有名和菓子商の家に生まれました。彼女は「将来は家のために有力な家に嫁に行くもの」として、「学問より家事や裁縫が大切」「夜は出歩かないように部屋に鍵をかけられる」という、厳しい管理のもと育てられました。
そんな文字通り「箱入り娘」だった晶子の唯一の楽しみは、『源氏物語』などの古典文学を密かに読むことでした。後に彼女は、『源氏物語』の現代語訳を世に送り出すことにもなりました。
保守的な時代に大胆な恋を歌い上げた、与謝野晶子『みだれ髪』
さて、古典文学を通して恋愛への憧れを抱くようになった晶子は、21歳の時に和歌の師匠・与謝野鉄幹と出会い、恋に落ちます。鉄幹には既に妻があり、更に晶子と同じ女流歌人で彼に思いを寄せる恋敵もいました。
しかし晶子は、自分の気持ちを諦めませんでした。
彼女は鉄幹に思いを届ける大胆な「恋歌」を、彼の主宰する文芸誌『明星』に投稿し続け、挙句の果てに大阪の実家を飛び出して彼と結婚。その時に鉄幹が晶子に勧めたのが、晶子が彼に送った激しい恋の歌をまとめた歌集『みだれ髪』の出版でした。
(画像出典:Wikipedia/みだれ髪)
やは肌の あつき血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君
くろ髪の 千すじの髪の みだれ髪 かつおもひみだれ おもいみだるる
人の子の 恋をもとむる 唇に 毒ある蜜を われぬらむ願い
このような晶子の大胆で激しく赤裸々な恋の歌の数々は、当時の若者たちの絶大な人気を得ました。しかし同時に、保守的な評論家たちからは「女性が堂々と恋愛を歌うなんてけしからん!」と激しい批判も浴びました。
『みだれ髪』は、与謝野晶子が亡くなった後も彼女の代表作として生き続けました。自分の作品が炎上したり、批判を浴びたりすることは、決して嬉しいことではありません。しかし炎上するほどインパクトを与える作品には、批判する人と同じかそれ以上の数のファンがつくのは、今も昔も変わらないようですね。