村正(むらまさ)と言えば、そのシャープで迫力に満ちた作風や、斬れ味の良さから日本を代表する名刀の一つとして知られ、三河(現:愛知県東部)を中心に多くの武士たちから愛好されました。
名刀「妙法村正」の銘。青丸部分に「村正」とある。
しかし、その三河を御膝元に治めてきた徳川家康は、家臣たちに村正の帯刀を禁止するようになります。
カッコよくて斬れ味がいいなら、さぞかし実戦で役立つでしょうに、どうしてなんでしょう。それは村正が「妖刀」と呼ばれたことにも由来するのですが、今回は徳川家と村正の因縁について紹介します。
家康の祖父・松平清康
随念寺蔵・松平清康肖像。岡崎市指定文化財
時は戦国・天文四1535年12月4日、三河国を統一した松平次郎三郎清康(まつだいら じろうさぶろう きよやす)は、織田弾正忠信秀(おだ だんじょうのちゅう のぶひで)の治める尾張国(現:愛知県西部)を征服するべく、一万余の兵を率いて守山城へ出陣。
三河との国境からほど近い守山城(現:愛知県名古屋市守山区)を治める織田孫三郎信光(おだ まごさぶろう のぶみつ)は信秀の弟でありながら清康に内応(寝返る約束)しており、それで清康も尾張進攻に踏み切ったのですが、この時、清康の陣中に不穏な噂が流れました。
「阿部大蔵定吉(あべ おおくら さだよし)が織田方に内応しているらしい」
これは清康の叔父でありながら織田方へ内通していた松平内膳信定(まつだいら ないぜん のぶさだ)が流したとも言われ、疑心暗鬼に陥らせて結束を乱すための策略でした。
しかし豪胆で鳴る清康のこと、「大蔵はそんな不義をする武士ではないし、万が一裏切るようなら、まとめて討てばよかろう」と、気にもしませんでした。こういう態度に清康の度量と矜持がうかがわれます。
とは言え「火のないところに煙は立たぬ」と言うように、一度噂が立ってしまうと、疑いの目で見る者も少なからず出て来ます。
つまらぬ噂で多年の忠勤を汚された定吉は悔しくてならず、嫡男の弥七郎正豊(やしちろう まさとよ)に起請文(きしょうもん。神仏に対する誓約書)を託しました。
「もし、それがしが殺された場合、この起請文を提出して疑いを晴らして欲しい」
かくして12月5日の朝、本陣の近くで馬が暴れる騒ぎが起きました。
「すわ、父上が討たれたか!」
とっさの事で逆上した弥七郎は、起請文のことも忘れて愛刀「村正」を押っ取ると本陣に殴り込むなり、清康を斬り殺してしまいました。
「おのれ、乱心者!」
弥七郎は駆けつけた清康の近臣・植村新六郎氏明(うえむら しんろくろう うじあき)によって成敗されましたが、後から事件の顛末と弥七郎の勘違いを知らされた定吉の失意は、察するに余りあります。
大将を失った松平方は敗れ去り、これが後世にいう「守山崩れ」。清康が25歳という若さで亡くなった後、松平の家督は当時10歳の千松丸(せんまつまる。後の松平広忠)が継承しますが、それから長い「苦難の時代」を迎えるのでした。
家康の父・松平広忠
10歳で松平家を継承した千松丸ですが、なにぶん幼いために家中をまとめるのは難しく、13歳の時に大叔父である松平内膳信定らの謀略によって三河を追い出されてしまいました。
伊勢国(現:三重県)まで逃れた千松丸が数年間の放浪生活を強いられる中、献身的に支え続けたのが、先ほど登場した阿部大蔵定吉。
元々が忠臣である上に、千松丸の苦難が嫡男・弥七郎の不祥事に起因することもあって、どうにか三河に返り咲く算段に奔走したそうです。
やがて駿河・遠江の両州(現:伊豆半島を除く静岡県)を領する大大名・今川治部大輔義元(いまがわ じぶのだゆう よしもと)の支援を受けて三河に帰還できましたが、今川氏に対する従属を余儀なくされます。
落合芳幾「太平記英勇伝三」より、今川治部大輔義元。慶応年間
西から織田氏の侵略に悩まされる一方、東から今川氏の突き上げと板挟みになりながら、松平氏が独立を取り戻すには、嫡男・竹千代(徳川家康)の成人まで、親子二代の歳月を要しました。
そんな苦労人の千松丸あらため松平三郎広忠(まつだいら さぶろう ひろただ)が亡くなったのは、天文十八1549年3月6日。
側近の岩松八弥(いわまつ はちや)が突如として発狂、身につけていた「村正」の脇差を抜いて広忠を刺し殺してしまいます。
そのまま逃走する岩松八弥を追い駆けて討ち取ったのが、前に清康を殺した阿部弥七郎正豊を討ち取った植村新六郎氏明。
二代にわたって主君の殺害に遭遇し、その犯人を討ち取るとは思わなかったでしょうね。
ちなみに広忠は享年24歳、遺された竹千代はたった7歳。
竹千代が数々の苦難を乗り越えて家康となり、松平家を再興して徳川家の天下を実現するまでの物語は、今なお聴く者の胸を打ち続けます。
家康の嫡男・信康
勝蓮寺蔵・徳川信康肖像。
祖父も父も「村正」によって失った家康ですが、嫡男である徳川三郎信康(とくがわ さぶろう のぶやす)もまた「村正」で失うことになります。
天正七1579年、信康に嫁いでいた織田信長の娘・徳姫(とくひめ)と、信康の母で家康の正室である築山殿(つきやまどの)の「嫁・姑戦争」がこじれ、母に味方する信康ともども頭にきた徳姫が父・信長に「信康と築山殿が武田勝頼と内通している!」と言いつけます。
これにキレた信長が、信康と築山殿の処刑を要求。信長を敵に回しては生きて行けない当時の家康は、泣く泣く二人を処刑したのでした。
信康が切腹する時、介錯人(首を斬り落とす係)には服部半蔵正成(はっとり はんぞう まさしげ)が指名されましたが、
「たとえ主君の命令といえども、主君のご嫡男に刃を向けることなどできません」
と辞退したため、検屍役(ちゃんと死んだか、遺体を確認する役)であった天方山城守道綱(あまかた やましろのかみ みちつな)が代行。
この時、道綱の差していた刀が、奇しくも「村正」だったのですが、後からそれを知った家康は、
【意訳】
「まったく不思議なことだ……村正は我が徳川家に怨みでもあるのだろうか。今後、村正の帯刀を禁止する。もし持っている者がおれば、すべて打ち捨てるように!」
【原文】
「さてもあやしき事もあるものかな。いかにしてこの作の当家に障ることかな。この後は差料の中に村正あれば皆取捨てよ」
※『徳川実記』より
と、度重なる因縁に恐れをなしたか、家臣たちに村正の所持・帯刀を禁ずるようになったということです。
終わりに
イメージ。
かくして「徳川に仇なす刀」として忌避されたことも手伝って、後世「妖刀」というイメージがついた村正ですが、その刃は時として「持つ者をして狂わしめる」と言われるのも納得の美しさ。
人を斬るため、殺すために産み出された刀としては、冥利に尽きることでしょう。
その後、二世紀半の歳月を経て挙兵した西郷隆盛はじめ維新の志士たちも「倒幕=打倒・徳川の象徴」として村正を好んだとされており、つくづく徳川家との浅からぬ因縁が偲ばれます。
村正(むらまさ)