前回は江戸時代の伝馬町牢屋敷の様子をご紹介しましたが、当時は今では考えられないような屈辱的な刑も多く存在しました。今回はその中の一つ、「入墨刑」についてご紹介します。
江戸時代は「彫物」大ブーム!
江戸時代も文政後期~天保頃になると、浮世絵師歌川国芳の水滸伝ブームの影響で、ド派手な「彫物(ほりもの)」が流行りました。彫物とは、今でいうタトゥーのこと。若者の憧れの対象となり、侠客はもちろん駕籠かきの雲助に至るまで、男という男がこぞって紋々を彫り入れました。
彫物を入れた男性 アドルフォ・ファルサーリ撮影、明治初頭
出典:Wikipedia
深川あたりの岡場所で「ものすごい彫物を背中に入れた女郎がいる」と聞けば、男たちはこぞってその女郎のもとに通い出し、超売れっ子になったなんていう話もあります。江戸時代の彫物文化は、現在のタトゥーよりも市井の人々にとっては馴染みの深いものだったのです。そういう時代でも「彫物」とは区別され軽蔑されていたのが、刑罰による「入墨」でした。
入墨刑の図 司法制度沿革図譜より
出典:国会図書館蔵
時代劇ではおなじみ、腕に2本線
「入墨」には地域によって多種多様な種類が存在しました。時代劇でよく見かける腕に2本線にも土地柄によって少しずつ違いはありました。江戸では肘より下に幅3分(約9ミリ)の線を2筋、2本の間は7分(約21ミリ)あけたのに対し、大阪では幅5分(約15ミリ)の2本線を肘より上に引き回しました。
右:江戸の入墨、左・大阪の入墨
出典:徳川禁令考後聚(第四帙)国会図書館蔵
また、佐渡では二の腕に幅3分で「サ」の字を彫り入れました。佐渡のサなのですぐわかりますね。
佐渡の入墨
出典:徳川禁令考後聚(第四帙)
更に驚きを禁じ得ないのが紀州の入墨刑。肘より下の方に、あからさまに「悪」の字を彫り入れていたのです。
紀州の入墨
出典:徳川禁令考後聚(第四帙)
おでこに「×」や「犬」の字!屈辱的すぎる…
しかし、腕への入墨なんてまだ序の口です。なんたって袖で隠せますから、なんとか第2の人生をやり直す事もできるでしょう。ところが、「これはどうしようもないな」と思わざるを得ないのが、いくつかの地方で行われていた額への入墨です。キン肉マンのようにかっこよければいいのですが、これは別物。
阿波では肘下に三本線に合わせ、額にも三本線が引かれました。鏡を見るたびに「げーっ、なにこれかっこわるいよう」と泣きたくなりそうです。
肥前では、さらに分かりやすく額に「×」印を彫り入れました。
左・阿波の入墨、右・肥前の入墨
出典:徳川禁令考後聚(第四帙)
最も瞠目すべきは、芸州広島。こちらはなんと、犯罪を重ねるごとに入墨が進化する方式。どういう事かというと、1度目には「一」、2度目にはカタカナの「ナ」、3度目にはとうとう「犬」の字にしてしまうという、なんとも屈辱的な入墨刑だったのです。
芸州広島の入墨
出典:徳川禁令考後聚(第四帙)(矢印加筆/筆者)
「ナ」まで行ってしまったらもう「犬」までコンプリートした方が・・・というのは冗談ですが、「肉」ならぬ「犬」文字を額に刻まれた強者は何人いたのでしょうか・・・。
トップ画像:出典 徳川禁令考後聚(第四帙)国会図書館蔵 合成加工/筆者