源義経(みなもとの よしつね)の家来として有名な武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい)。
その生い立ちから数々の武勇伝、義経に対する忠義の果てに遂げた壮絶な死まで、今なお語り継がれる歴史物語の人気者ですが、今回は弁慶にまつわる慣用句やネーミングについて紹介したいと思います。
慣用句として通用するには、その対象がよく知られていることが前提ですから、弁慶が人々からどのようなイメージで伝わってきたのか、慣用句から感じ取るのも面白いでしょう。
以前「日本刀」にまつわる慣用句も紹介しましたので合わせてどうぞ。
あれもこれも日本刀に由来!意外と多い暮らしに根づいた「日本刀」にまつわる慣用句を一挙紹介
弁慶の立往生(たちおうじょう)
立ったまま死ぬ=往生することで、現代では主に、進退に窮した状態を言います。単に「立往生」と言うことも多いです。
歌川国貞「武蔵坊弁慶」安政五1859年
これは文治五1189年閏4月30日、藤原泰衡(ふじわらの やすひら)に攻められた主君・義経を守るために戦った弁慶は、全身に無数の矢を受けながら立ったまま死んだことに由来します。
いつまで経っても倒れない弁慶に恐れをなした泰衡の軍勢が足止めを喰らったため、義経が自害する時間を稼げたそうです。
弁慶の泣きどころ
向こう脛(ずね)のことで、ここをぶつける(打たれる)と、弁慶ほどの豪傑であっても泣くほど痛いと言われる急所を言います。
歌川国芳『和漢英勇画伝』より「義経 弁慶と五条の橋で戦ふ」(部分)。
筆者も向こう脛をぶつけてとても痛い思いをした経験がありますが、何でこんなに痛いかと言うと、この部分は皮膚と骨の間が薄く、骨に沿って神経が通っているからだそうです。
弁慶の七つ道具
弁慶はトレードマークの一つである薙刀(なぎなた)以外にもたくさん武器を背負っている姿が有名ですが、その内訳は熊手、大槌、大鋸、刺叉(さすまた)、突棒(つくぼう)、袖搦(そでがらみ)の全七種類。
※絵師や物語によって諸説バリエーションがあります。
歌川貞升 「弁けい・四代目中村歌右衛門」 より、弁慶の七つ道具。これに持っている「薙刀」が加わると……あれ?八つですが気にしない。
ここから、仕事などで必要な道具セットを「七つ道具」と呼ぶようになり、特に7つでなくてもよく使われています。
内弁慶(うちべんけい)
家の中や内輪だと強気に威張り散らすことで、よそに出ると弱気になってしまうことから「外ネズミ」「外地蔵(だんまりである事から)」などと対にして使われることが多いです。
強気な様子を「弁慶さながら」と表現したいための慣用句でしょうが、決して弁慶当人が内輪だけで威張り散らしていた訳ではなかったと思います。
弁慶蟹(べんけいがに)
小さな甲羅をよく見てみると、その模様がまるで弁慶がにらんでいるかのように見えることから名づけられたそうです。
弁慶と言えば、鬼のような形相がトレードマークですが、蟹の甲羅を見て弁慶を連想する中世人の豊かな想像力は流石です。
弁慶草(べんけいそう)
刈り取ってもなかなか枯れず、植えれば再び根を張る生命力の強さから「弁慶」と冠せられたそうです。
そんな植物なら他にもたくさんありそうなものですが、よく見ると葉肉が分厚くなっており、こうした外観もムキムキな弁慶のイメージと合致したのかも知れません。
まとめ
歌川芳藤「御曹子牛若丸 武蔵坊弁慶」弘化年間ごろ(江戸時代後期)
……とまぁ他にもたくさんありますが、今も昔も、弁慶と言えば「力自慢で強面だけど、脛(すね)が弱点とか、ちょっとお茶目な一面もあって憎めない」そんなイメージが、あちこちの言葉に残っています。
とにかく義経が大好きで、最後の最期までお供したその一途な忠義こそ、多くの日本人に愛され、多くの言葉にその名を残した所以なのでしょう。