陰鬱とした天候が続く梅雨の時季に合わせて咲く紫陽花。関東近郊ではあじさい寺の別称を持つ鎌倉の明月院や東京の白山神社などが有名なスポットだ。
江戸時代に来日したドイツ人医師シーボルト(本名フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト)は、日本の植物である紫陽花をこよなく愛し、自身の著書『日本植物誌』でHydrangea otaksa(ハイドランジア オタクサ)という学名を付けて西洋に紹介した。
ハイドランジアとはセイヨウアジサイのことで、オタクサはとある日本人女性の名前である。シーボルトが紫陽花に人の名前を付けた理由とは。
来日と楠本滝との出会い
シーボルトは出島(オランダ商館)の医師として、文政6(1823)年に来日した。翌年には出島の外に診療所と医学塾を兼ねた鳴滝塾を開設し、高野長英や伊東玄朴などの著名な蘭学者や蘭方医がここで学んだ。
来日後すぐにシーボルトは出島行きの遊女 其扇(そのぎ)と出会い恋に落ちた。彼女こそが紫陽花の学名「オタクサ」の由来となった楠本滝その人であった。
ちなみに、滝との間に産まれた娘イネも後に医師となり、主に産科産科として活躍している。
医師でありながら博物学者でもあったシーボルトは日本の動植物に関心を抱き、日本人医師の養成の傍ら、研究にも熱心に取り組んだ。長崎の絵師川原慶賀には著書の挿絵用に採集した動植物を描かせ、西洋に日本を発信した。日本での研究と愛する妻と娘との暮らしにシーボルトは大変な幸福を感じていたことだろう。
お気に入りの花に愛する女性の名を・・・
ところが、シーボルトが一時帰国をしようとした際、日本国外に持ち出し禁止の地図が船に積まれていることが発覚した(シーボルト事件)。幕府は地図の返却を要求したが、シーボルトは拒否。尋問と軟禁生活の末、国外追放処分を受けてオランダに帰国し、妻子とは離れ離れとなったのだった。
帰国後は日本研究に没頭するが、その中でも愛する妻子を忘れることはなく、1832年に刊行された『日本植物誌』では彼が特に好んだ紫陽花に、お滝さんの名で親しまれていた妻 滝の名前を入れ、“Hydrangea otaksa”(ハイドランジア オタクサ)という学名を付けている。
関東はまもなく梅雨入りとなり、じめっとする日々が続くことになるだろう。そんな時、ふと道端に咲く紫陽花に目を向けてみてほしい。お気に入りの花に愛する女性の名前を付けたシーボルトの愛情深いエピソードが、気分を軽くしてくれるかもしれない。