耳の聞こえない両親のもとに生まれた一人の女性がいる。
浅川昭子(56歳)さん。
現在は、東京・板橋区で手話通訳の仕事をしている。
本格的に手話を習い始めたのは、両親が亡くなってから。
「私たちは、どのくらいお互いのことを理解できていたんだろうーー」
手話を学び、ろう者のことを知れば知るほど、昭子さんはそんな後悔に苛まれるようになったという。
「私が親を守らなきゃ、強くならなくちゃ、我慢しなきゃ」
昭子さんは、1963年に東京・足立区で父・昭三さんと母・タイ子さんの長女として生まれた。
両親はともに耳が聞こえなかった。
「子どものときは、聞こえない親のことがすごく恥ずかしかった」昭子さんは、子ども時代をそう振り返る。
両親が使う手話やろう者独特な話し方に、周りの視線が気になった。
「母に電車やバスの中で話しかけられると、すごく恥ずかしくて。『みんなが見てくるから、手話はしないで』って母に言ったこともありましたね」
一方で、聞こえない両親を「かわいそう」と思う気持ちも強かった。
小学校低学年のとき。
学校の授業参観で、親子でドッジボールをする企画があった。
「みんなは『危ない』って声をかけあってボールから逃げることができるけど、うちの母親は聞こえないから、ただコートの中を走り回るだけ。それでやっぱり母親にボールが当たっちゃったのね。その姿を見たとき、すごく切なくなっちゃって。かわいそうだな、母親も聞こえれば当たらずに済んだのになって…」
また、昭子さんは今でもある光景を鮮明に思い出す。
賑やかな親戚の輪の中で、ポツンと座る両親の姿だ。
両親は、周りが何を話しているか分からないはずなのに「うん、うん」と笑顔で頷いていた。
「そんな姿を小さい頃から見てきて、『両親かわいそうだな』って思いがずっとずっと心の奥にあって。だからこそ『私が親を守らなきゃ、強くならなくちゃ、我慢しなきゃ』って、全面的に弱みを見せたり、甘えられなかったりしたのはあったと思う」昭子さんは言う。
「一番大切なことを親には伝えられない」
思春期になると、悩みを一番身近な親に相談することができなくなった。
高校3年生で進路について悩んだとき。
卒業後は就職するはずだったが、大学に進学したい気持ちが芽生えた。
部活でやっていた陸上を、大学で続けたかったのだ。
しかし昭子さんには、そんな自分の複雑な感情を両親に伝えられるほどの手話のスキルがなかった。
日常的な手話は問題がなかったが、少し混み入った話になるとなかなか思いを伝えることができなかった。
しかも、昭三さんは未就学で読み書きすらできず、タイ子さんも小学3年生までしか学校に通っていない。
そんな両親に、健聴者の大学進学の事情なんて分かるはずもなかった。
それでも母親には自分の思いを一生懸命伝えようとは、した。
「母親も『うん、うん』とは頷くんだけど、全く理解していないだろうなという感じ。分かってもらえないって察知して、もう諦めるしかないんだなって」
結局、進学は諦めた。
「『ああ、一番大切なことを親には伝えられないんだなあ』って。その頃から、何か悩んでも、自分で判断して決めることが多くなった」と昭子さんは言う。
「聞こえない世界」を深く知った今
手話を習い始めようと考えたのは、1995年にタイ子さんが亡くなったあと。
自宅で一人きりになった昭三さんの「手話がなくて寂しい」という一言がきっかけだった。
手話では、父と深い会話ができなかった昭子さん。
「私がちゃんと手話を勉強しなきゃ」。
それまで手話を学ぼうと思ったことは一度もなかったが、母親が他界し、それが娘としての義務のように思った。
しかし、当時の昭子さんは子育ての真っ最中。
思うように手話の勉強を始められないまま、昭三さんはタイ子さんの後を追うように他界してしまう。
やっと育児が落ち着いた1999年ごろ、両親亡き後だったが「せめて両親の友人と手話で話せたら」と手話講習会に通い始めた。
「だんだん、手話を勉強していくうちに、親について知っているようで知らなかったことがいっぱいあったんだって気付いた」と、昭子さんは話す。
たとえば、「あとで、あとで」という昭三さんの口癖。
「ああ、また父親の『あとで』が始まった」昭三さんの生前は、そんな風に少し呆れて聞くことが多かった。
しかし、手話を通じてろう者と交流するなかで、その口癖の「意味」を知る。
ろう者は周囲で行われている会話について周りに尋ねても「あとで」と、後回しにされてしまうことが多いのだと、他のろう者から聞いたのだ。
「それを聞いたとき『ああ、そういうことだったんだ』って思って。父も聞こえる兄弟の中で育ってきて、『なに?』って聞いても周りから『あとで、あとで』といつもいつも後回しにされてきたんだろうなって」
昭子さんは続ける。
「私、親に対して失礼なこといっぱいしてきちゃったのかな。大事なことなのに親に伝えてあげないで、のけ者にしてしまったり…」
「もっと早く手話を勉強していれば」という心残りも残る。
「あの時は手話でどうやって伝えたらいいか分からなかった気持ちも、今だったらきっと伝えられるんだろうな」昭子さんは言う。
手話通訳者になったのは、ろう者から「ろう者の感覚をよくわかっている」と手話を褒められたことがきっかけだった。
昭子さんが通訳をする際に大切にしていることは「ろう者を1人の人間として尊重すること」だ。
ろう者と健聴者同士で、手話や身振り、表情などで会話が成り立っているときは、あえて通訳はせずそっと見守るようにしている。
「ろう者にだってプライドがある。ろう者が必要としているところだけを、補ってあげればいい」聞こえない両親を持ったからこそ分かる、ろう者の気持ちだ。
「親に伝えられなかった分、せめて今、自分のできることで他のろう者の役に立ちたい」
天国の亡き両親を想いながら今、手話で一生懸命伝える。
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聞こえない親を持つ子ども(Children Of Deaf Adults) は、その頭文字を取ってCODA(コーダ)と呼ばれている。
コーダは、親を助ける役割を親や周囲から期待されることが多かったり、進学などの情報や助けを親から得にくかったりなど、特有の悩みを持つことが多いという。
当事者ばかりに目が向けられがちな「障がい」。
しかし、障がい者の近くにいる「見えないマイノリティー」の人生にも目を向けていく必要があるのではないか。