2001年、児童8人の尊い命が奪われ、15人が重軽傷を負った大阪教育大附属池田小事件。この事件で、長女を亡くした本郷由美子さんは、自らの深い喪失感と向き合いながら、「人を支える」活動を続けています。
2001年、大阪教育大学附属池田小学校事件から
名前通りに優しく、希望でいっぱいだった優希ちゃん。4歳下の妹をかわいがり、幼稚園時代は「お花やさん」、小学生になってからは「せんせい」が夢でした。
2001年、大阪教育大学附属池田小学校に刃物を持った男が押し入り、1~2年生8人が殺害された事件で、長女の優希ちゃん(当時7歳)を失った本郷由美子さん。
生きていれば、優希ちゃんが社会人になっていたはずの昨春、東京都内の学童クラブで指導員として働き始めました。
放課後、廃校した校舎にある学童クラブに、1~4年生の子どもたち数十人が「せんせい、ただいまー」と次々やって来ます。本郷さんは「無事に帰ってきてくれて、ありがとう」という気持ちを込めて、「おかえりなさい」と一人一人を迎えます。
宿題を見たり、一緒に遊んだり、時には悩みを聞いたり。子どもたちの笑顔を見られることが何よりうれしいといいます。
本郷 あの事件から、娘の同級生とはずっと交流を続けてきました。2016年の春、その子たちが就職の報告をしに来てくれたとき、「優希ちゃんは学校の先生になりたいって言ってたね」と話したんです。
ちょうど私は50歳で、この先どう生きるかを考える節目でもありました。それで、学校の先生にはなれないけれど、これからを生きる子どもたちと関わる仕事がしたいなと思ったんです。
ネットで学童クラブの指導員を募集しているのを見つけて、すぐに応募しました。
学童クラブの仕事は週3日。子どもたちはとにかく全力で、命がそのまんまぶつかってくる感じですね。体力を使うハードな仕事で、体はヘトヘトになるけれど、それが心地よい疲れなんです。
小学1、2年生が多いので、娘もこんなふうに遊んでいたなって思い出したりもします。
あの日、学校から帰ったら一緒にクッキーを作ろうねと約束して、「行ってきまーす」と元気よく出ていった娘に、私は「おかえりなさい」を言えませんでした。
「ただいま」「おかえり」という当たり前の会話を交わせることがどれだけ幸せか。そう感じているので、「ただいまー」と学童クラブにやって来る子どもたちに「おかえりなさい」と言える自分がうれしい。
子どもたちが「自分たちは守られるべき命なんだ」「大切にしてもらえてるんだ」と感じられるように見守ること、それが今の生きがいになっています。
自分自身の存在まで消え去るような喪失感に襲われて
2001年6月8日。小学校の教室で命を奪われた優希ちゃんは、妹思いで心の優しい、芯の強い女の子でした。
大切に大切に育ててきた娘の突然の死。本郷さんは自分自身の存在まで消え去るような喪失感に襲われました。
本郷 生きる基盤を喪失して、事件後は見ているものの色も感じなくなったし、人の声もはっきり聞こえない。匂いも味もしない。ものを触っても、熱い冷たい、硬い軟らかいという感覚すらなくなって、自分はもう精神的に死んでいるんだと思いました。
今思えば、これ以上刺激を与えたら壊れてしまうから、何も感じないようにしようという体の自己防衛本能だったのでしょうね。このまま消えてなくなりたいと願ったけれど、死ぬことも何もできませんでした。
生きる力を喪失した本郷さんが、それでも生きていこうという気持ちになったのは、ある事実を知ったときでした。
本郷 娘は心臓を刺され、即死だったと警察から聞かされていました。
でも事件からしばらくして、教室で刺された娘が、致命傷を負いながらも廊下まで逃げ出て、校舎の出口に向かって懸命に歩いていたことがわかったんです。
私は娘が力尽きた現場に行き、廊下に点々と続く血の痕をたどりました。私の足で68歩分。娘はどんな気持ちだったのか、私は少しでも感じたくて、毎日毎日その廊下を歩きました。
最初は「お母さん、助けて」と言っている娘の苦しそうな顔しか浮かんできませんでした。
でも痛みに寄り添っていくうちに、本当に最期の瞬間まで一生懸命生きようとした娘の笑顔が浮かんできたんです。
ああ、人が生き抜く力はこんなに強いんだって、娘が命がけで教えてくれた。だから私は、ここで止まってはいけない、ちゃんと歩いて行こうと思いました。
だけど、あまりにもつらいことだから、「神様、私はこの68歩分をしっかりと生きます。もし願いをかなえてもらえるなら、69歩目を娘と一緒に歩かせてください」と誓ったんです。
深い悲しみを抱えながらも、歩き出そうと思い始めた本郷さんを支えたのは
事件後、心の痛みを和らげる方法を求めて本郷さんがすがるようにして読んだ本。付箋や書き込みがいっぱいです。
深い悲しみを抱えながらも、歩き出そうと思い始めた本郷さんを支えたのは、黙ってそばにいてくれた人たちでした。
本郷 もう逃げることはできない、ちゃんと真剣に生きようと思ったとき、たくさんの人たちの存在を感じたんです。
事件後すぐ駆けつけて共に涙を流してくれた犯罪被害者家族の方たち、ただそばにいてくれた友人たち、下の娘の幼稚園の送り迎えや日常をサポートしてくれた近所の人たち、学校の先生方や保護者の方々……。
苦しいときに、静かに寄り添ってくれた人たちの存在が何よりも支えとなり、私は一人じゃないんだと感じることができました。
自分も誰かの支えになりたいと思うようになった本郷さんは、事件から4年後、対話を通じて傷ついた人をケアする精神対話士の資格を取得しました。
さらに11年から3年間、上智大学グリーフケア研究所で学び、グリーフケアの専門資格も取得。これまで娘を事故で亡くした人や病院で終末期医療を受けている人などの元に出向き、ケアを行ってきました。
本郷 大きな喪失の後、「時間が止まってしまった」と多くの方がおっしゃいます。現実の時の流れと、自分の中の時の流れとの差が開けば開くほど、孤独に陥ってしまう。私はその止まっている時間に身と心を置き、対話をすることを心掛けています。
私自身、苦しみを一人ではどうすることもできず、誰かに話しては納得することを繰り返してきました。だから相手に寄り添い、話を聞くことが大事な支援になると信じているんです。
原発事故で福島県南相馬市から東雲住宅に避難してきた男性の話を聞く本郷さん。
写真提供=メンタルケア協会
本郷さんは4年前、次女の高校進学を機に上京。一昨年からは福島などから避難した人たちが暮らす東雲住宅(東京都江東区)に月2回通って被災者支援をしています。
本郷 生まれ育った土地にもう戻れない――その喪失感に寄り添いながら、少しでも気持ちが楽になったらいいなとお話を伺っています。
最後は必ず手を握って、お互いの存在を送り合う。私も役に立たせていただいている、自分の存在を認めてもらっていると思えるから、互いにケアしケアされているんだと思います。
事件当時3歳だった次女は、2016年大学生に。母のように人に寄り添う仕事がしたいと、心理学を学んでいます。
本郷 亡くなった人の思いを社会に役立てようとすることを「遺志の社会化」というんです。私はまさにそれ。いろいろな活動を亡くなった娘と一緒にしてきました。そうしていないと、自分を保てなかったんですね。
でも、次女には「なんで私の方を見てくれないの」と寂しい思いをさせたみたいです。去年、次女がその気持ちを思いきり私にぶつけてくれて、二人で大泣きして和解しました。親子のぶつかり合いができたことが、私はすごくうれしかった。
これからも子どもたちに命の尊さを伝えていきたい。そして求めてくれる人がいたら応えられる私でありたいです。
精神対話士とは?
精神対話士は、悩みを抱えた人に“対話”を通して前向きに生きる援助を行う専門職。1993年に医師らが設立した一般財団法人・メンタルケア協会が認定する資格です。年齢、学歴、職歴は不問で、講習を受講後に試験があります。現在の有資格者は約950人。人生経験豊かなシニア世代も活躍しています。
本郷由美子(ほんごう・ゆみこ)
取材・文=五十嵐香奈(編集部) 撮影=篠塚ようこ