「コックリさん」とは、50音を書き込んだ紙(文字盤)と文字を指し示すコマ(硬貨、割り箸、おちょこなどを用いる)を使って行う一種の「降霊ごっこ」。主に占い遊びとして普及した。
起源については諸説あるが、欧米の「テーブルターニング」(丸テーブルを使った降霊術)や「ウィジャボード」(木製アルファベット文字盤)を使った占いなどが明治時代に我が国へ伝来し、次第に日本風にアレンジされたもの……という説が有力だ。一方で、すでに江戸時代からほぼ同じような占術が下町の若い女性たちの間で流行っていたとする文献もあるそうなので、稲荷信仰などと結びついた日本古来のものだったのではないかという説もある。
ともかく、この「コックリさん」が70年代初頭に若者たちの間で爆発的に大流行したのだ。話題となった最初のきっかけは1970年前後に放送されたラジオの深夜番組だったらしいが、その後、毎度のように本コラムに登場する昭和オカルトの伝道師、中岡俊哉氏が『テレパシー入門』(71年)という著作で取りあげた。さらに中岡氏は、以前にも本コラムで紹介した本邦初の「コックリさん」入門書である『狐狗狸さんの秘密』(74年)を刊行、これがドカンと大ベストセラーになったのである。この70年代前半の時点では、中岡氏は「コックリさん」を「心霊」ジャンルのトピックではなく、どちらかといえば「超能力」に関連したものとして紹介していた。
ブームの初期の「コックリさん」は、「予知能力」や潜在意識を活用した「自動筆記」などに類するものとして、盛り上がりはじめた「超能力ブーム」の流れのなかで若者たちの好奇心を刺激したようだ。
ちなみに、この70年代のブームに至るまで、「コックリさん」が大きく流行した時期は少なくとも2回あったといわれている。
一度目は海外からの伝来時期にあたるとされる明治から大正にかけてのころ。このときに流行の発信源になったのは主に芸妓の女性たちで、花街における酒宴の余興としてブームになったらしい。
その次が戦中だ。出征した夫の安否を占うため、銃後の主婦の間で行われることが多くなったという。一説によれば、それまでの古典的「コックリさん」は割り箸やおちょこを用いる方法で行われていたが、このころに硬貨(五銭銅貨など)が使われるようになったのだそうだ。こうした背景には、「夫に四銭九銭(死線苦戦)を越えてほしい」という戦時の妻たちの願いが込められていたといわれている。もちろんあくまでも気休め的なものであって、夫が遠方の戦場に出ている間の不安を紛らわせる手慰みのようなものだったのだとは思うが、従来は「酒宴の余興」でしかなかった占い遊びの「コックリさん」は、この段階で少々シリアスなものに、いわば戦時特有の憂鬱な気晴らしのようなものに変容していったのかも知れない。
おもしろいのは、70年代のブームのときも、若者文化のなかでブレイクする以前の「コックリさん」は、一種の「スナック芸」のようなものとして、バーなどの飲み屋のカウンターで披露されることが多かったことだ。当時は酒の席でホステスさんの気をひくための不思議な手品(ビール瓶やマッチ棒などを使ったトリック)などがオジサン連中の間で散発的に流行していたが、「コックリさん」もこういうもののひとつとして夜の酒場で話題になっていたらしい。戦中に主婦の間で流行していた「悲しい遊び」を、その息子世代のオジサンたちが酒場で細々と継承していたということなのだろう。
ブーム以前の「コックリさん」についてはとにかく資料が少なく、今となってはこのあたりの事情は勝手に推測してみるしかないのだが、最初期に花街の「酒宴の余興」として普及した「コックリさん」が、戦後、再び同じような形でバーやスナックでのたわいもない「芸」として復活してきたとき、この戦後型の「コックリさん」は、やはり明治期のそれとはだいぶ違った性質のものになっていたのではないか。戦争を通過してきたことによって、つまり直接的に近親者の生死を占う「悲しい遊び」として捉えなおされたことによって、どことなく重く暗いものになっていたのではないだろうか。ただの「遊び」として行われながらも、やはりそこには「戦争の記憶」「死の記憶」がまとわりつき、「余興」として単純に楽しむにはちょっと不吉な、一種の「嫌な感じ」を漂わせる雰囲気を帯びていたのではなかったかとも思うのだ。
70年代にリバイバルした「コックリさん」がことさら「怖いもの」としてクローズアップされ、盛んに「遊び半分でやってはいけない」と警告された背景には、なにかこうした事情もあったような気がする。
子ども文化における「コックリさん」
以上のような経緯で流行しはじめた「コックリさん」に多くのテレビ、週刊誌(主に女性週刊誌)などが追従してブーム化したのだが、とりわけ子ども文化への「コックリさん」普及に大きな影響を与えたのは、73年から『少年マガジン』に連載されたマンガ『うしろの百太郎』(つのだじろう)だろう。この作品の初期エピソード「こっくり殺人事件」のインパクトは絶大で、多くの子どもたちの好奇心を刺激した。同時期に少女マンガなどにも取りあげられ、全国の小中学校では、休み時間になると毎日のように子どもたちが「コックリさん」に興ずる光景が見られるようになったのである。
ところが、ほどなくして「コックリさん」の最中に子どもたちが「狐憑き」状態(一般にはヒステリー的な発作やパニック障害と解釈される)になる事件が続発し、深刻な社会問題となってしまう。全国の学校で「コックリさん禁止令」が発令され、それまでは児童雑誌などによく見られた「コックリさんのやり方」などの記事もすべて封印されることになった。
ちなみに「狐憑き事件が続発!」といっても、おそらく「続発!」はしていなかったのではないかと僕は思っている。当時は全国各地で多数の犠牲者が出ているというイメージが蔓延していたが、声高に騒ぎたてた女性週刊誌などをチェックすると、曖昧な伝聞形式や噂レベルの報道が多かったようだ。数件の事例が複数のメディアで大々的に報道されたため、印象が事実よりもはるかに大きくなってしまったということなのだろう。というか、メディアが確信犯的に過剰に煽ったということなのだと思う。
……ザックリ概要を紹介するだけのつもりがまたもや前置きが長くなってしまったが、実は今回からの「昭和こどもオカルト回顧録」で取りあげたいのは、王道の「コックリさん」そのものではないのだ。
あのころ、全国の小学校でPTA主導の「禁止令」による「コックリさん弾圧」(?)の嵐が吹き荒れるなか、70年代の小学生女子たちは創意工夫をこらして「コックリさん亜種=コックリさんではないコックリさん」を次々と考案、「70年代オカルト女子」ならではの意地としぶとさで規制を潜り抜け、平然と占い遊びを楽しみ続けていた。僕が考察したいのは、70年代後半から80年代初頭の女の子文化を彩った、これらガーリーでファンシーな「脱法コックリさん」の摩訶不思議な世界についてなのである。
初見健一「昭和こどもオカルト回顧録」
文=初見健一