日本全国ヒッチハイクで回ろうとしていた小田原出身の25歳の男性は、気仙沼のボランティアに参加後、気仙沼の漁業にアップサイクルの概念を持ち込み、世界に発信しようとしている。
南三陸に生まれ育った23歳の女性は新規に就農し、新たな農業の形を生み出そうとしている。
栃木県出身の25歳の男性は、福島大学在学中に海外で福島の風評被害を痛感し、福島で作られる作物を生かした食材を開発し、全国に広めようとしている。
新規ビジネスに挑む20代の3人が暮らすのは、「東日本大震災の被災地」だ。「その土地でなにかをする」ために動き始めた20代の3人と、彼らを支えた「土地の人々」。それぞれに物語があった。
震災から4年後、それでもボランティアに
気仙沼は2011年3月11日14時46分に起きた東日本大震災で、津波によって大きな打撃を受けた。それから11年経った今、マグロ漁業をはじめ、漁業もほぼ復興を遂げている。
しかし、復興した気仙沼は別の悩みを抱えていた。漁業の大切な道具である漁網の処理についてだ。明確な処分方法がなく、海中に投棄せざるを得ないことも少なくなかった。
海洋汚染やサステナビリティの観点からも、世界中の漁業に携わる人の悩みと言っていい。
その悩みに果敢に挑む20代の若者がいるのだ。
それが小田原市に生まれた加藤広大さんだ。2021年9月、「世界中の廃漁網を未来の資源にする」をミッションに新会社「amu」を立ち上げた。
加藤広大さんが気仙沼に入ったのは、震災から4年後の2015年。大学1年生のときに授業でボランティア論をとった際、チラシでその存在を知った。
ボランティアに入ったのは気仙沼の唐桑半島。やはり津波で大きな被害を受けた場所だ。
「僕が入った時はもう“復興”から次の段階、新たな創生が必要なときでした。唐桑半島に移住してきた方々と、地元出身者の20代の方とサークルができていました。震災時、ボランティアの人が生活をしていたプレハブ小屋に集い、みんなで作戦会議をしたりして」
ライフラインの復興などは整っていた、しかし、課題は山積していた。
例えば、「地元の子が海に近づかなくなった、近づけなくなった」という問題。地元出身の方が特に課題意識を持っており、自分たちが子どものころにやっていた「浜遊び」の面白さを伝えたいと語っていた。そこに、加藤さんをはじめ外部から来たメンバーも加わる。
ともに「気仙沼のために」アイデアを出し合い、震災からただ復興するのではなく、新しい魅力を生み出すために実践していた。
明確な目的のために力を尽くす人々にも魅了された加藤さんは、その後インターンなどをしながら、長期休みの時は唐桑に「帰る」生活をしていた。
気仙沼から事業を起こすことが大切
そののち、加藤さんはIT大手企業に就職し、インターネット番組のプロデューサーになった。
「面白いものさえ作れば、北海道の先端から沖縄までスマホで同時に楽しめるお祭りができると思いました」
自分で事業をやるとなったときには気仙沼で、という思いは漠然とあった。しかし、実際やるには社会も経済ももっと知らなければならない。まず就職し、夢中で働いて基礎を磨いた。そして数年働いて決断する。
「気仙沼に行こうと決意したのは、震災から8年くらいのタイミングです。中央に暮らしていたら気づかない場所で事業を立ち上げて『こんなこともできるんだ。どこに住んでもチャンスがあるんだ』ということも示したい。いちばん好きな地域である気仙沼でやろうと思ったんです」
漁網の処理、漁師さんたちも気になっていた
最初は海産物に付加価値をつける事業を考えたが、既存のビジネスとバッティングする。ではどんなビジネスができるだろう。そんなときに「漁網の処理」に気が付いた。
たしかに、海に暮らし、海を愛する人たちが、本心から海への廃棄を良しとするはずもない。
港町・三陸はマグロを大量に水揚げしている。その漁網の多くはナイロン66というプラスチック樹脂でできている。使用後の漁網の処理は、以下の選択肢があった。
- 1) 再利用する
- 2) 海洋投棄する
- 3) 放置
- 4) 海外に売る
- 5) ハサミで切って一般ごみにする(産廃として料金を払う)
- 6) 海外で捨てる
- 7) 焼却する
しかし現実問題再利用は難しい。手間や料金を考えても、焼却や廃棄することも避けられなかった。そもそも、漁網がどの程度売られているかを把握することも、回収そのものも難しい。
なら漁網を回収して、それを「素材」とし、商品化するシステムをビジネスにはできないか。
加藤さんは漁網の中でも最も多い、ナイロンテグス、通称「マグロテグス」の回収をして素材を作る会社を立ち上げるのはどうだろうかと考えた。
そんなときに相談したのが、唐桑で民宿「唐桑御殿つなかん」を営む女将・菅原一代さんだった。
一代さんはかつて牡蠣の養殖場を営んでいたが、震災で壊滅状態となる不運に見舞われた。その後2013年から民宿を開始。ボランティアの人たちも宿泊や食事に訪れる、唐桑のシンボル的存在だ。加藤さんもボランティアのころから出入りをし、「宿泊するお金はなかったので、ときおり夕食でお邪魔しました」という。
そんな一代さんにアイデアを話すと、「漁師たちもホントは嫌だと思ってるのよ!」とすぐさま気仙沼の漁業のリーダーたちを紹介してくれた。
「その顔合わせに一代さんもついてきてくださって、というか僕が連れて行っていただいて、社長や漁労長にお目にかかることができたんです。そしてその方々が関係者を口説いたる、と言ってくださり、機関長、船長、漁労組合長と多くの方々に紹介いただけました」
関係者のみなさんの後押しを得て事業計画を立て、これはビジネスにできると2021年9月に新会社「amu」を設立した。
気仙沼のみにとどまらず、協力をあつめ、漁網の回収を実施。2022年2月10日に、10トントラックに満杯となるマグロテグスを回収し、愛知のリサイクル業者に送ったばかりだ。
「漁網のアップサイクルは、気仙沼だけではなく世界中の問題。それを気仙沼から成功させたい。今はその思いです」(加藤さん)
新規就農を決意した23歳
1998年6月19日生まれの大沼ほのかさんは、現在南三陸の入谷地区で「大沼農園」を営んでいる。育てているのは桃やブルーベリーといった果樹が中心。
23歳の彼女が、土地を持っているわけではないにもかかわらず新規就農を決意したのは、大学1年生のときの入谷地区での出会いがきっかけだった。
大沼さんは宮城県南三陸の、入谷とは別の地区に生まれた。311が起きた時は小学6年生。サラリーマンの父とキッチンカーでクレープ屋を営む母、そして姉と妹の5人家族だ。
震災で自宅でもある加工場は流出してしまい、一家は北海道で避難生活を送った。
「北海道は本当に広い!と思いました。そこで父は養鶏を手伝うようになったんです」
震災から2年後に、大沼さん一家は故郷の南三陸に戻り、両親は養鶏場とクレープ屋を営むようになった。
当初、農業を目指していたわけではなかった。しかし大学1年生の時に経験した農業研修で、大沼さんは本気で新規就農を志すようになったという。
「いま私が師匠とあおぐ阿部博之さんのリンゴ農園で研修を受けました。阿部さんは入谷地区で生まれた時から農家をしていて、土地をたくさん持っている方なんです。
入谷は津波の被害を免れた貴重な場所。この里山の風景を見てほれ込み、『ここで農業をやりたい!里山の景色をつかったカフェもやりたい!』と思いました。なにより、この入谷の風景が、私が生まれ育った震災前の家の風景とすごく似ていたんです。
また研修中、阿部さんがいつもしているという昼寝を一緒にさせていただいたんですが、『え、寝られないよ』と思っていたのに横になったら2分後に寝てしまっている自分がいて。本当に居心地のよい空間だったんです。だから、阿部さんの豊かな生き方に憧れたというのも理由の一つです」
そして大沼さんは“大学を卒業したらこの入谷地区で果樹を中心とした農業を始めよう”と決意をしたのだった。
南三陸の新規就農を助けてくれた「三大あべさん」
その新規就農を助けてくれたのが、地元の大先輩たちだった。
「とてもお世話になっている『阿部さん』が3人います。
就農を相談したら100人くらい紹介してくださった阿部博之さん、入谷の活性化をはかるために尽力していらっしゃるアイデアマンで『いりやど』という宿泊施設の館長としていらっしゃる阿部忠義さん、農業を真摯に教えて下さる阿部勝善さん。『三大あべさん』と呼んでいます」(大沼さん)
里山の素晴らしい景色とこの土地の食材を生かしたい
大沼さんが考えているのは、入谷地区の里山を活性化できるような農業形態だ。
里山にカフェを作り、自分の土地で作った食材を使った料理でもてなす。そうすることで、この素晴らしい景観を楽しんでくれる人は増えるはず。
農作物が育つには時間がかかる。大沼さんもまだ農作物の売買だけで生活を成り立たせることはできない。そこでその前に、キッチンカーでクレープ販売も始めるようになった。
Twitterを見ると、「大沼農園」のプロフィールに「自然卵のクレープ 南三陸店」のアカウントが貼ってある。
「あ、それも私です。『田束山麓自然卵農園』が両親の養鶏場で、自然卵のクレープというのは母がやっている店ですが、南三陸店は私がやっています。ただ、今は施設の問題でキッチンカーでの限定販売をしています。限定販売できるときにSNSで告知をしてやっています」
「農業は株式会社だ」と感じているという。一人でやるものではない、地域で一緒になって盛り上げていき、作ったら終わりなのではないと。
キッチンカーだけではない。芋ほりイベントも開催して、大いに盛り上がった。栗の苗木を50本植え、2回失敗したが、3回目のチャレンジをしたばかりだ。幼少期にした栗拾いをした楽しい思い出を再現できたら。景色が見えるところでカフェを作れたら――。夢は尽きない。
「果樹はできるまで5年はかかります。今こうして農業を始められたのは、農家をやりながら入谷地区を活性化したいというみなさんのおかげ。それにこの間、いりやどさんの向かいにおしゃれな施設が空いていて、もしかしたら借りることができるかもしれません。そうしたらカフェも早く実現しそうです」(大沼さん)
カナダで衝撃を受けた「福島」への拒否感
1996年7月21日生まれ、栃木県で育った大島草太さんは、福島大学卒業後、福島県田村市都路町に住んでいる。在学中の2019年3月に「Kokage Kitchen」を立ち上げた。
川内のそば粉、田村の卵など、地元の食材を使ったそば粉のワッフルを作り、キッチンカーで販売する。そして「株式会社ホップジャパン」にも勤務してクラフトビールを醸造しながら、今はさらに醸造過程で出るモルト粕を用いた新商品の開発にも挑んでいる。
大島さんはなぜ福島の地で、その地でできた素材を生かすビジネスを始めようと思ったのだろうか。それは学生時代に訪れたカナダでの体験があったからだった。
「高校生の時に一度、国際交流のプログラムで2週間ほどカナダを訪れました。そうしたらとても素敵なおもてなしを受けて。でもそれはお客様だからではないか。本当に暮らしたらどうなんだろうと思い、大学3年生のときに1年間休学し、ワーキングホリデー制度を使ってカナダのトロントに再度行き、暮らしました」
結婚式場で働き、『その土地に暮らす』という体験をした。そこで、「Fukushima」という言葉への拒絶に遭遇する。
「現地で参加したホームパーティーの最中、ある人からどこから来たのかと聞かれ、日本の福島だと言ったら、『あんなところ人が住めるのか』と言われたんです。それが本当にショックでした。
僕が福島大学に入学したのは2015年。震災から4年経っていました。小さい頃キャンプに行ったくらいでしたし、最初は少し不安もあったんです。でも多くの方が福島市で普通に生活をしているのを見て、変わりました。きちんとどこにでも線量計がある。食料のセシウム量だって、むしろきちんと計っている。
大学のフィールドワークで川内村にもいて、そのことをよくわかっていました。だからこそ、その反応は違う!と言いたかったし、もっと誇れる福島にしたいと思ったんです」
福島が故郷なわけではない。しかし暮らしてみて素敵だと思った場所が風評被害に遭うのはおかしいと感じた。同時に、問題があるからこそやる気も起きた。
「福島は可能性の宝庫だと思ったんです。確かに原発事故のあと、出て行った人に比べて入ってくる人が少なく、地域課題はあります。だからめちゃくちゃ面白そう! と思いました」
福島の素材で作ったそば粉のワッフルを
大島さんはクラウドファンディングで出資を募り、2019年3月に福島の素材を生かしたキッチンカービジネス「Kokage Kitchen」を立ち上げた。
キッチンカーで販売するのは、自ら開発したそば粉のワッフルだ。川内で作られたそば粉と田村市のたまご。試行錯誤しながら、福島の素材で作ったワッフルが完成した。
大島さんのビジネスが拡大するきっかけとなったのが、「ホップジャパン」の社長・本間誠さんとの出会いだった。
本間さんはもともと山形出身で、田村市で自社栽培するホップでクラフトビールを作っている。
ホップジャパン本社がある「グリーンパーク都路」は、震災前からほとんど使われていなかったアウトドア施設で、キャンプ場や管理棟などのある場所だった。その場所で、福島産のビールを造り、お客さんにその場でも飲んでもらう。
大島さんはKokage Kitchenをする過程で、町の開発をする方々と知り合い、2020年11月からホップジャパンでビール醸造の仕事をするようになった。
「ホップジャパンのポリシーは、ビールとホップを核に地域に循環を生み出すことなんです。原料から無駄なく使うことと、のびのびストレスなく働くことも大切にしています。そうして僕のように新しいことをしながら起業する人をサポートしてくれて大変ありがたいんです」
そして、ホップジャパンのある「グリーンパーク都路」でKokage Kitchenのそば粉ワッフル販売をするようになる。その行動がある地域住民の心を動かした。
「『よりあい処 華』という郷土料理の古民家レストランを営む今泉富代さんが、グリーンパーク都路でのキッチンカーの出店を見て、郷土料理『かんぶら焼き』の店を出店してくださるようになったんです。そうしたら地元の方にどんどん広がって、マルシェとなり、大きく拡大しました」
福島のモルト粕で新しいビジネスを
そして、今年実現させる新しいビジネスが、クラフトビール造りで出てくるモルト粕を用いたお菓子の販売だ。今はホップジャパンの隣に加工場を設け、都内のシェフとともに開発している。
「モルト粕は、海外ではスーパーフードと言われているほど栄養価が高く、様々な料理に活用されているんです。捨てたりするのはもったいない。でも醸造の過程で出てから半日も経つと、においがきつくなってしまう。だったら醸造所の隣の加工場でにおいが出る前に乾燥させ、アップサイクルできるようにしたらどうかと考えたんです」
そうして試行錯誤し、モルト粕を上手に乾燥させることができるようになってきた。ビールのおつまみにもなるような新商品を2022年のうちにリリースし、2年後には全国的に流通させようと準備をしている。
「ここに暮らそうと思った理由は、やりたい思いやアイデア・挑戦がしやすいこと、そして生き方のかっこいい大人がたくさんいることです。
震災後に移住してきた方も、もともとの住民で避難後に戻った方も、お金のためだけでなく地域のために働く人たちがたくさんいました。『こんな風に働きたい』と心から思ったから、今ここにいるんです」(大島さん)
気仙沼の加藤広大さん、南三陸の大沼ほのかさん、そして田村の大島草太さん。
それぞれの場所で、その土地にほれ込み、きちんとビジネスにできることを考えて動いている。だからこそ地元の支えが寄せられるのだ。
東日本大震災から11年。東北にみられる復興から創生のムーブメントは、新しい人と旧い人が混ざり合い、大きなうねりとなっている。
この記事は、現代ビジネスによるLINE NEWS向け「東日本大震災特集」です。