多くの現象は白か黒かの二択ではくくれない。白に近い灰色から黒に近い灰色まで、グラデーションがある。人あるいは国の行為も、善か悪かに二分することは、多くの場合、難しい。灰色のグラデーションのように善者と悪者の間に善悪グラデーションがあるのかもしれない。
しかし、数多くの紛争・戦争のなかで、今回のロシアによるウクライナ侵略ほど、はっきりと一方に非がある(悪者である)例は少ないと思う。ウクライナによるロシア領内への先制攻撃があったわけではない。一方的にロシアがウクライナに攻め入った。これは明確な国連憲章違反である。
ロシアの主張は、1990年の東西ドイツ統一交渉の際に、NATOが東方拡大をしない、という「約束」をしたが、それを西側が反故にして、いまやロシアと国境を接するウクライナまでNATO軍が来ようとしていることが問題だ、という。しかし、この「約束」は文書になったものではない。口約束はあったかもしれないが、東方拡大が、旧東ドイツ地域だけを指すのか、旧東欧諸国全体を指すのか、明らかではない。
99年には、チェコ、ハンガリー、ポーランドがNATOに加盟。さらにその後も、旧東欧諸国など11カ国が、2020年までに加盟している。もしNATOの東方拡大が問題だというならば、ずっと前から、東方拡大阻止の交渉が行われていたはずだ。真剣な交渉もせずにいきなりの領土侵略は、限りなく黒(悪者)に近い。3月2日の国連の緊急特別会合で、ロシア非難決議が、賛成141カ国、反対5カ国、棄権35カ国の圧倒的多数で採択されたことからもわかる。
これに対して、東京大学の入学式祝辞で、河瀨直美映画監督は「例えば『ロシア』という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと『悪』を存在させることで、私は安心していないだろうか?」と述べた。
これはちょっと違う。ロシアが「正義」と言っていることは、国際法上、人道上、基本的人権上、どのように見ても、「正義」ではない。ウクライナは一方的に侵略された被害者であり、ロシアは加害者である。国連の決議はそれを示している。今回の侵略に関しては、はっきりとロシアを糾弾することが、正しい選択だ。けんかの原因究明をしない「けんか両成敗」的発想こそが、安易である。
さらに河瀨監督は、「そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです」とも言っている。これは戦前の日本が言論統制を敷いて、軍国主義に走ったことへの反省のようにも聞こえる。
しかし、現在の世界で言論統制を行い、他国を侵略しようとしているのは、日本ではない。戦前の日本のような言論統制、他国侵略を、現在している、またする可能性が高い国を「悪者」と呼ぶことに、躊躇はいらないはずだ。河瀨監督には、ぜひ、カメラを持ってウクライナに行っていただき、何か起きているのかをしっかり記録していただきたい。
ウクライナで起きていることを、アジアに置き換えて考えることも重要だ。1956年の日ソ共同宣言に基づいた北方領土の返還交渉に次第に否定的になってきたロシア、核兵器を開発したうえでミサイルを大型化して発射実験を繰り返す北朝鮮、台湾の武力統一の可能性を否定しない中国、尖閣諸島周辺の領海侵入を繰り返す中国、南シナ海の一方的支配を進める中国。将来、ウクライナのようなことがアジアで起きたとき、欧州の人たちから「正義と正義のぶつかり合いで一方を悪者とは決めつけられない」という発言が出たら、そのときの日本人がどのように感じるか、考えてみたほうがいい。
いま、国際法違反をしているロシアに対してきっちりと経済制裁を加えて、ロシアに自らの国連憲章違反の軍事行動を後悔させることが、将来の東アジアにおける、現状変更を目指す軍事行動の抑止につながることを、しっかりと認識する必要がある。(5月8日記)
伊藤隆敏◎コロンビア大学教授・政策研究大学院大学客員教授。一橋大学経済学部卒業、ハーバード大学経済学博士(Ph.D取得)。1991年一橋大学教授、2002~14年東京大学教授。近著 に『Managing Currency Risk』(共著、2019年度・第62回日経・経済図書文化賞受賞)、『The Japanese Economy』(2nd Edition、共著)。