今年は新日本プロレスと全日本プロレスがともに旗揚げ50周年を迎える歴史的な年だ。プロレスといえば迫力ある攻防や華麗なコスチュームが楽しみのひとつだが、忘れてはならないのが “外国人レスラー” の存在。
今回、少年時代から多くの個性派レスラーを撮影してきたプロレスカメラマンの大川昇氏(54)が、昭和の “超人” たちの封印されていたプライベート写真とともに素顔を明かした。
まず紹介するのは1971年2月に初来日して以来、 “千の顔を持つ男” の異名を持ち、試合ごとに異なるマスクとコスチュームでファンの度肝を抜いたミル・マスカラス。
「昨年、旭日双光章を受章しましたが、素顔もじつに親日家です。来日すると必ず浅草で神社仏閣巡りをして、自身のマスク用に着物の生地を物色しています。日本人よりも日本文化に精通しているのではないでしょうか。
絵を描くことも趣味のひとつで、自宅のトレーニングルームの片隅にアトリエを構え、マスクやコスチュームのデザインを考えることもしばしばです」(大川氏・以下同)
かつて力道山と死闘を繰り広げたのが、“白覆面の魔王” ことザ・デストロイヤーだ。その後は、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスのリングに上がり、バラエティ番組(『噂のチャンネル!!』)にも出演して、タレントとしても活躍した。プロレス技の代名詞ともいえる足四の字固めを日本に広めたレスラーでもある。
白いマスクは当初、女性用のガードルを改造して奥さんが作っていたというのは有名なエピソードだ。
「とにかく優しい方でした。引退後も夏になると、当時住んでいた麻布十番の祭りに参加し、自らグッズを売る姿は夏の風物詩でした」
■ホテルにファンが殺到 まるでサイン会場
外国人レスラーというより、アイドルレスラーとしてファンに愛されたのがテリー・ファンクだ。全日本プロレスでは、兄のドリー・ファンク・ジュニアとザ・ファンクスとして活躍。1983年夏に一度引退(後に現役復帰)したが、その直前のテリーフィーバーはすさまじいものがあった。
「私がプロレスを観るきっかけにもなった永遠のヒーローです。子供のころ、テリーさんの滞在するホテルに行ってサインをもらったり、写真を撮らせてもらいましたが、多くのファンでホテルのロビーはサイン会場のようでした。テリーさんは一人ひとりにサインを書くだけではなくメッセージも添えてくれました」
また、若い女性たちによる親衛隊が存在していたほどで、その人気ぶりはまさにアイドル級だった。
そんなテリー・ファンクを凶器攻撃で徹底的に痛めつけた悪役レスラーといえば、アブドーラ・ザ・ブッチャーだ。スキンヘッドの額に深く刻まれた傷は、悪役レスラーとしての誇りにすら思える。その一方で、日本のテレビCMや映画にも出演し、チャーミングな一面を見せるなど、日本で最も知名度の高い外国人レスラーではないだろうか。
「リングの上で相手の腕や額にフォークを突き刺すショッキングなシーンを見せていましたが、額の傷にお札を差してポーズを取るなどお茶目な一面があり、サービス精神の塊でした。
また、リングを下りると紳士で、来日すると若いレスラーに常々、“親を大切にしなさい” “親を尊敬しなさい” といったことを話しかけていた姿を何度も見たことがあります」
新聞記者だったブルーザー・ブロディ
■刃傷沙汰の喧嘩……多くの六本木武勇伝
長いカーリーヘアをなびかせてチェーンを振り回し、雄叫びを上げて観客を蹴散らすようにして入場する姿が印象的だったブルーザー・ブロディ。 “超獣” の異名とともに、古舘伊知郎氏は “インテリジェンスモンスター” と命名。
これは、ブロディがレスラーになる前は、新聞記者であったからという理由である。
「多くの外国人レスラーは、自分をアピールするために積極的に写真を撮らせてくれます。
しかし、ブロディの場合は、撮らせてくれるポーズはワンポーズのみ。しかも目線をくれるのは一瞬だったりと、一発勝負を仕掛けられている気分でした。
こちらがシャッターを押したのを確認すると、 “終わりだ!” という雰囲気を醸し出す……自分を安売りしない選手でしたね」
プロレス技の代名詞のひとつ、ウエスタンラリアットの先駆者であり、日本で最も成功した外国人レスラーの一人がスタン・ハンセンだ。 “ブレーキの壊れたダンプカー” の異名で知られ、新日本プロレスではアントニオ猪木と、全日本プロレスではジャイアント馬場と死闘を繰り広げた。
一方で、試合前の控室では眼鏡をかけて新聞を読んでいる物静かな性格だったという。
「現役時代、マスコミに対して必要以上にコメントを出すことがなく、あまり接点はありませんでした。しかし、現役引退後に何度か撮影をしましたが、いつもニコニコしていて、こんなにフレンドリーだったのかと驚きました」
筋骨隆々の体に独特なヘアスタイル、顔にはペイントという出で立ちで登場して、対戦相手をボコボコにしてあっという間に去っていく……そんな試合スタイルで一世を風靡したのは、ホーク・ウォリアーとアニマル・ウォリアーによるザ・ロード・ウォリアーズである。
1985年3月におこなわれた初来日の記者会見では、プロレスマスコミだけではなく一般週刊誌などのマスコミも大挙押しかけて社会現象にもなった。その来日時、夜な夜な繰り出したのが六本木。そこでもさまざまなエピソードを残している。
「当時の外国人レスラーと六本木は切っても切れないというか、シリーズのオフ日には誰かしらに遭遇したといわれ、プライベートの彼らを垣間見られる場所でした。
とくにホークは六本木での武勇伝を数多く残していて、酔ってタクシーを持ち上げたとか、刃傷沙汰の喧嘩をしたとか……信じるか信じないかは別として多くの伝説を残しています」
車窓を開けて傘で威嚇するタイガー・ジェット・シン
■カメラを向けた途端、持っていた傘で威嚇
新宿の路上でアントニオ猪木を急襲し、新日本プロレス史上最も凶暴な外国人レスラーとしてその名を轟かせたのはタイガー・ジェット・シン。
対戦相手はもちろんのこと、時には報道陣相手にサーベルを振り回して暴れていた。しかしその一方で、地元のカナダでは実業家としても名を馳せ、慈善事業にも積極的に取り組む紳士でもあった。
「子供のころ、一度カメラを向けたときに持っていた傘で威嚇されてとても怖かった経験があります。しかし今思えば、それが悪役レスラーとしてのファンサービスだったのでしょう。
プロのカメラマンになってから、一度だけ酒席をともにする貴重な機会に恵まれましたが、テキーラをしこたま飲まされてさんざんな目に遭いました(苦笑)。
だけどそれで彼に認められて、私にだけシャッターチャンスをくれるようになったりと、よくしてもらいましたね」
ちなみに、ひと昔前のプロレスラーは国内外問わず酒豪というイメージが強いが、「最近は常にボディシェイプに気を遣っているからか、酒を飲まない選手のほうが多い」とのこと。
現在、アメリカのプロレスの象徴であるハルク・ホーガンは、日本を経てスーパースターの階段を駆け上がっていったレスラーだ。トレードマークであった「一番」のロゴがデザインされたTシャツは、多くのファンが着ていた。
本国では数多くの作品に出演する俳優としても活躍。そのため、1990年代以降はレスラーとしてではなく、タレントとして作品PRのために来日することが多くなった。
「本国でのスターっぷりは、日本では想像できないと思います。登場するだけで地鳴りのような歓声が上がるほどです。私自身、何度か撮影をしていますが、大スターになってもけっして偉ぶることはありませんでした。 “これぞスター” というオーラはハンパなかったですね」
■息子の売り込みに必死だったパパレスラー
最後に紹介するのは、1987年12月にビートたけしが結成したTPG(たけしプロレス軍団)からの刺客として登場したビッグバン・ベイダーだ。巨体から繰り出すパワフルな攻撃から粗暴なイメージがあるが、じつは穏やかで優しい性格であったという。
「日本で試合をした外国人レスラーの映像を取り寄せて研究したりと、向上心の塊でもありました。また、晩年は同じくレスラーの息子さんと一緒に来日することも多く、その売り込みに一生懸命でしたね。よきアメリカの父親という印象があります」
ビッグバン・ベイダーといえば、漫画家の永井豪氏がデザインした甲冑も有名だが、「ベイダー!」の掛け声とともに噴出される煙はセコンドがリモコンで操作していたという。
毎週金曜夜8時の “プロレス中継” に心躍らせていた昭和時代。あらためて “解禁” された秘蔵写真を眺めると、当時の興奮が甦ってくる。
時は流れて令和になり、今では昔のような “まだ見ぬ怪物” という外国人レスラーは皆無になってしまった。オールドファンとしては、残念でならない。
おおかわのぼる
1967年生まれ 東京都出身 1987年「週刊ファイト」へ入社。その後「週刊ゴング」写真部を経て、1997年10月よりフリーカメラマンとして活動。メキシコをはじめ、海外でもプロレスを撮り続けてきた。2021年10月に『レジェンド』(彩図社)を刊行。東京・水道橋にてプロレスマスクの専門店「DEPO MART」を経営
取材&文・入江孝幸
写真・大川昇
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