1月9日の『5時に夢中!』(TOKYO MX)で放送された、マツコ・デラックスの発言が議論を呼んでいる。
番組では「夫がご飯に味噌汁をかけて食べるのが不快でたまらない。最近は子供もマネしだして困っています。夫には『家のなかだけだからいいだろ』と言われますが……」という主婦の悩みが紹介された。
マツコは、このお悩みに対し、「私はご飯になるべくものをかけたくない人なので、絶対やらないけど、家のなかではよくない?」と持論を展開。
「ナイフとフォークでお召し上がりになっているようなお宅だったら、わざわざご飯も用意しろってのはありですけど、(相談者は)ねこまんま食いそうな家なんでしょ? うちもそうだけど、みんな、ねこまんま食ったっておかしくない家に住んでるわけじゃない」と語り、「なにが悪いの? 子供の教育に悪いってこと?」と疑問を呈した。
この発言に対し、SNSでは論争が勃発。
《ねこまんま俺は無理だわ。下品だしなんか汚ならしい。何より美味くない。だからと言って他人にまでやめろとは言わないけど家族がやってたら言うだろうね》
《個人的には毎回だと嫌かな。せっかく作った料理に、一口も食べずにソースかけられてしまうようなモヤモヤ》
といった否定的な意見もあれば、肯定的な意見も。
《私はねこまんま好きでしたよ モチロン外食や人前ではやりませんけどw》
《飯ぐらい好きに食えと思う、日本人にとってぶっかけ飯は普通だと思うがな》
『ぶっかけめしの悦楽』(1999年、遠藤哲夫著)という本によれば、ご飯に味噌汁をかける食べ方は、鎌倉から室町時代の武士たちに親しまれた食べ方だったという。以降、「ぶっかけ飯」は文化として定着した。
ただ、江戸時代になると、中流以上の武士たちの間ではマナーとして禁じられている。この伝統が明治・大正以降も続き、家庭や学校教育の場で流布したと考察されている。
では、ご飯に味噌汁をかける食べ方が「行儀が悪い」とされた理由はなにか。生活史・食文化研究家の阿古真理さんがこう語る。
「1952年に発表された小津安二郎監督の映画『お茶漬の味』では、まさに『ぶっかけ飯』をめぐる価値観の違いが描かれています。登場人物の佐竹茂吉は、地方出身ながら丸の内の商社に勤めるエリートサラリーマン。東京出身の妻・妙子は裕福な家庭で育ったお嬢さんです。
茂吉はお茶や味噌汁をご飯にかけて、『気やすい感じが好きなんだ』と話すんですが、妙子は『犬にやるご飯みたい』と嫌がります。次第に夫婦仲がギクシャクし始めたとき、茂吉が海外出張に出かけることに。当時の海外出張はかなりの大ごとですから、妙子は不安な気持ちで過ごしますが、飛行機が飛ばず、茂吉がひょっこり帰ってきます。
いつもご飯を作ってくれる女中さんは寝ていたので、残ったご飯をお茶漬けにする茂吉をマネして妙子も食べたところ、これが美味しかった。最後は茂吉が『夫婦とはお茶漬のようなもの』とまとめ、2人して笑顔になるという話です。
実のところ、日本の “白いご飯” 信仰はかなり根強いと思われます。1955年にお米の生産量が回復するまで、多くの庶民にとって白いご飯は憧れでした。昔は、『お米はお百姓さんの88の手間がかかっている』というしつけもありました。それだけ、貴重な白いご飯を汚してはいけない、という刷り込みが大きかったのでしょう」
だが、「時代が変わればマナーも変わる」と阿古さんは語る。
「日本のファミレスは、1964年の東京五輪でセントラルキッチン方式が生まれたあと、1970年代から普及しました。そのころ、ライスをフォークの背に乗せて食べる文化が生まれました。いまでこそファミレスには普通に箸がありますが、当時はナイフとフォークしか置いてないところばかりでした。
現代でいうと、ご飯にいろいろのっけることの楽しさが広がり始めているように思います。ワンプレートにおかずやご飯を一緒にのせる “カフェ飯” スタイルが流行り、おかずの汁がご飯にかかった状態で出されてもよしとする話もよく聞きます。そのあたり、マナーも価値観も変わってきています。
時代に応じて、食文化はどんどん変わっていくんです。いまはちょうど、ぶっかけ飯をよしとする人と、白いご飯信仰を持つ人たちの間で衝突が起きている時代なんじゃないでしょうか。
もうこれは価値観と感性の問題ですから、お互いの気持ちを尊重しあうしかないですよね。『お茶漬の味』みたいに、食べたら美味しかったという話でもいいですし、どうしても抵抗があれば『見せないでくれ』と伝えた方がいいですし」
正しいか正しくないかという話ではないだけに、なかなか結論は出なさそうだ。
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