2005年、堺と濱崎氏(左)が共演した『宮城野』は、劇作家・ 矢代静一作の、男女の心理的な愛憎劇を描いた作品だ(『宮城野』のパンフレットより)
「若手社員役の今田美桜さんは、『堺さんは、カメラが回ってないときはものすごく優しいけど、半沢直樹になると、重厚さや厳しさが肌身に突き刺さるほど、緊張感があります』と周囲に語っています」
“令和の名優” は、いかにして生まれたのかーー。3人兄弟の長男として、兵庫県神戸市で生まれた堺は、直後に宮崎市へ引っ越し、幼少期をそこで過ごした。
「部員がほとんどいないので、自由にできるのがよかったのでしょう。最初は先輩がひとりしかいなかったのに、堺くんに憧れた後輩が入ってきて、彼が高校3年のときには、部員が20人ほどに増えていました。『ファンクラブ』を結成する女子もいました」(地元の友人)
「70人ぐらいで、太平洋戦争を題材とした群読劇をやることになったんです。『この役をやりたい人?』と聞くと、堺くんだけが『ハイ!』。また『この役をやりたい人?』と聞くと、堺くんが『ハイ!』。それじゃ、役が決まらない(笑)。とにかく、積極的な子でした」
「パワフルな劇に、圧倒されました。研修会で私は、『若いうちは、元気のある演技を。うまい演技は、年を取ってからでいい』と話したんです。それを覚えててくれたのかな」(同前)
「この時代の東京の大学がどんな雰囲気だったか、何度も聞きに来ましたよ」
「当時、私はスクールカウンセラーを務めていました。カウンセリングルームが演劇部の近くにあったからか、堺くんがよくやってきました。彼は、『質問魔』なんですよ」
「小学生のとき、『買いたい本がある』と、新聞に投書して図書券をもらっていました。『どんなことを書けば採用されるか、わかる』と豪語するほどでした。高校時代の模試では、偏差値が80を超えることもありました」(地元の同級生)
「国語の教師が、『堺に100点を取られないよう、試験問題を作るのに苦労した』なんて、話していたほどです」
「当時は、まだ演劇で食っていくつもりはなかったと思います。でも、演劇にのめり込んだせいで、大学で自分の希望する専修に進めなくなったそうです」(前出の友人)
「実家からは、勘当状態が続きました。テレビの仕事もなく、友人に奢ってもらい、食いつなぐ時期もありました」(同前)
「彼が宮崎に戻ってきたときのことです。飲み会の席で、ただ脚を組んで座っている姿に、ゾクッとしてね。それまで感じたことのない “オーラ” を、初めて感じたの」
「その当時、宮崎市内で飲んでいたら、堺くんの父親から『息子が、NHKの朝ドラに出ているんです。観てくれなくては』と自慢されたんです。
『観てくれなくては』という言葉には、“早稲田の文学部という就職が難しいところにやったのは先生のせいだから、責任を取って見届けてくれ” という意味もあったのでしょうね(笑)」(伊藤氏)
「2000年ごろ一緒に飲んだとき、『私の宮崎の劇団が、2005年に20周年を迎えるの。そのとき一緒に、芝居をやりたいな』と言ったら、『やりましょう』と快諾してくれたんです。でも2004年に、『新選組!』(NHK)が大ブレイクして。忙しいから無理だろうな、と諦めていたんです。
「堺くんは、大切な時期なのに事務所も通さず、個人で出演してくれたんですよ。しかも堺くんのファンも、宮崎まで来てくれました」
「2010年に、宮崎で家畜の口蹄疫が蔓延したときも、心配して帰ってきてくれました。いまでも定期的に帰ってくるのは、故郷の宮崎を大切にしてくれているからだと思います」
(週刊FLASH 2020年8月18・25日号)