trf、安室奈美恵、篠原涼子、華原朋美、鈴木あみ、ダウンタウン浜田雅功……。
1990年代、TKこと小室哲哉にプロデュースされたアーティストがヒットチャートを席巻した。
それまでCDセールス10万枚がヒットの目安とされていた音楽業界で、小室作品は100万枚突破が当たり前。150万、200万枚突破と次々に記録を塗り替えていった。
平成の音楽シーンにおいて、小室哲哉はなぜ「伝説」になったのか。
多くの音楽関係者は揃って「作詞、作曲、編曲、セールスプロモーションのすべてを自身で手がける、初めての『総合プロデューサー』になったからです」と言う。
曲作り、CDセールス、番組出演交渉など、ほとんどにおいて分業制が当たり前だった音楽業界で、小室は本人による「一貫制作・一貫演出」を確立したのである。
加えるなら、制作者の小室自身もミュージシャンとしてユニットを結成、多くのメディアに露出することでプロデュースしたアーティストの「宣伝効果」を高めたことも特筆すべきことである。
高校卒業後の1977年、シンセサイザーなどを駆使して本格的に音楽活動を始めた小室はずっと“専業作曲家”だった。
アニメや映画などの主題歌の作曲も手がけた小室が、「総合プロデューサー」になるターニングポイントを迎えたのはいつだったのか。
小室と30年来のつき合いがあり、音楽界の歴史や交友などを綴った『調子悪くてあたりまえ・近田春夫自伝』を2021年1月に上梓した、音楽家の近田春夫氏が興味深い分析をしてくれた。
「1986年に提供した渡辺美里の『My Revolution』以前と1993年に楽曲提供を始めたtrf(現TRF)以後。ここにヒントがあります。
『My~』以前の小室氏は宇都宮隆氏、木根尚登氏とともにTMネットワークで活動していましたが、そのころは作曲だけをしていて、『My~』も作曲のみでした。
しかし、当時ミュージック界で無名だったエイベックスを率いる松浦勝人氏と出会い、そのころから作詞もするようになりました。
そして、trfの2曲めのシングル『EZ DO DANCE』(1993年)が大ヒット。ここから小室氏の作品はメロディより歌詞のメッセージ性が強くなっていきました。作風も大きく変わりました」
trfは小室の発想で誕生したユニットである。
「SAMさんなどのダンサーが主役で、ボーカルのYU-KIさんやDJのDJ KOOさんが後ろにいる、これまでのユニットとは違う不思議な組み合わせでした。
この構成はダンスシーンに精通していた小室さんの提案で、自らSAMさんを口説いたそうです」(当時を知る音楽雑誌編集者)
■小室プロデュース曲にある「等身大の世界」
近田氏が指摘した「強くなった歌詞のメッセージ性」。その歌詞にこそ小室プロデュースの神髄があるという。
女性ファンが多いことで知られる小室の曲だが、青山学院大学在学中の1998年に「小室ファミリー」として『BAD LUCK ON LOVE~BLUES ON LIFE~』でデビュー、同年の日本レコード大賞新人賞を受賞したtohkoもティーンのころに、歌詞に共感した一人。
「私の曲にも街中の雑踏、歩道橋、信号など日常で見たり感じたりするワードがあって、10代、20代の女のコが自分と等身大の世界観を共有できるように描かれていると思いました。
当時はカラオケがブームだったので、みんな夢中になって小室さんの曲を歌い、少しでも上手になろうと必死になりました」と振り返る。
女性が歌詞に共感すること。小室はそこを計算していた。このことからも、小室が「女性アイドルのアーティスト化」を手がけたことはうなずける。
1994年に東京パフォーマンスドールの篠原涼子をソロとしてプロデュース。
『恋しさと せつなさと 心強さと』は、日本の女性ソロ歌手として初めてCDシングルの売り上げが200万枚を突破した。
1995年には、グラビアアイドルだった華原朋美、ダンスパフォーマンスグループ「スーパーモンキーズ」の安室奈美恵、1998年には素人オーディション番組で優勝した鈴木あみなどを次々とプロデュース。「TKブーム」を巻き起こした。
「安室は “アムラー”、華原は “カハラー” と呼ばれるファンを生み、ファッションリーダーになりました。仕掛人は小室さんです」(女性誌編集者)
アイドルをアーティストにするため、小室はどのようなプロデュースをしたのか。こだわったのが「芸名」だ。
■芸名からMVまですべてをプロデュース
「華原朋美は小室氏のイニシャル『TK』で表現できる芸名に改名。鈴木亜美もデビューのときにわかりやすいように『あみ』にしました」と音楽専門誌編集者。その「芸名へのこだわり」をtohkoが裏づけてくれた。
「私がデビューすることが決まり、芸名をどうするかとなったときに小室さんから3つ提案されました。tohkoと籐子とトーコです。
tohkoは、小室哲哉&日向大介の共同プロデュースなのでお2人の名前が組み込まれています。
籐子は、ナチュラルでしなやか、だけど強さのある歌手になってほしいという意味がこめられていました。
トーコは、デビューするとき、新人のお披露目なので誰にでも覚えてもらいやすいカタカナ表記にしようとなり、それぞれを使い分けました。
MVやジャケットの撮影でも、小室さんのこだわりは感じられました。『こういうイメージで』と細かく伝えますし、衣装やヘアスタイル、出来上がった写真のセレクトなどもすべて小室さんがしていました。
夜中に、お一人で黙々と音入れをしている姿を見かけたこともあります。『音楽が本当に好きなんだな』って新人の私は感動しました」
当然だが小室は多忙を極めた。globeで活動をともにしているマーク・パンサーも、2017年に『FLASH』の取材で当時をこう振り返っている。
「4枚めのシングル『DEPARTURES』(1996年)でセールス200万枚を達成、ダンスキャンプでは10万人を前にライブをしました。忙しすぎてあのころの記憶もあいまいです」
疲れ果てて飛行機のファーストクラスで布団を敷いて寝ていたこともあったという。
それでも小室は曲作りをした。よく小室は「感性の人」といわれるが、じつは「泥臭い作業」を厭わないミュージシャンでもあったのだ。
■令和へ受け継がれる小室の「音楽」
2017年3月には当時の天皇皇后両陛下が訪問されたベトナムでの晩餐会で、現地の盲学校の生徒と音楽を披露。同年の秋の園遊会に招待され、両陛下と談笑した。
2000年には九州・沖縄サミットの歓迎レセプションで沖縄県出身の安室奈美恵が歌ったイメージソング『NEVER END』をプロデュースした。
だが、このころから小室は自身の才能に限界を感じているようにもとれる発言が多くなり、音楽界における存在感は次第に薄くなっていった。
あるインタビューでは「宇多田ヒカルさんの曲が僕を終わらせた」とも語っている。
「それでも小室氏の才能は不変です」と近田氏。
平成の時代にさまざまな金字塔を打ち立てた小室は、令和の音楽シーンにどのような影響を与えているのだろうか。
「リアルタイムで小室氏の曲に熱中した世代の孫世代が今、カラオケで安室ちゃんの曲を歌っています。
これはすなわち、TKの曲は普遍で、確実に今の制作者、音楽ファンに受け継がれているということです」と近田氏は断言する。
その証左といえるのが、作曲と編曲を担当し、2020年7月に配信された乃木坂46の『Route 246』である。作詞は“盟友”の秋元康氏だ。
小室はこの曲の配信開始に合わせて「ここ数年ゼロからアートを学び、あらためて概念、すなわちコンセプトを持った創造物の貴重さを感じています」とコメントしている。
かつて小室は著書『罪と音楽』で「女性シンガーの曲に詞を書くとき、たいてい渋谷を意識した。渋谷で起きているような、もしくは起きていそうな恋愛、渋谷に似合う言葉、渋谷の香りなど、渋谷を歩いて五感で感じるすべてを忘れないよう心がけた」と書いている。
小室の研ぎ澄まされた感性に「概念」がプラスされた。平成から令和になり、小室は深化していた。小室伝説はこれからも続く。
次のページでは、小室哲哉の略年譜とこれまでプロデュースしてきたアーティスト一覧を紹介する。
<<小室哲哉 略年表>>
●昭和33年(1958年) 11月27日、東京都府中市に生まれる
●昭和52年(1977年) 早稲田実業学校高等部卒業後、早稲田大学に入学。在学中からミュージシャンとして活動する
●昭和58年(1983年) 早稲田大学を中退。TM NETWORKを結成
●昭和59年(1984年) 『金曜日のライオン』でTM NETWORKとしてデビュー
●昭和61年(1986年) 渡辺美里に提供した『My Revolution』がヒット
●平成5年(1993年) プロデュースしたtrfがデビュー。2ndシングル『EZ DO DANCE』がヒット
●平成6年(1994年) 篠原涼子に『恋しさと せつなさと 心強さと』を提供してプロデュース。翌年、ダブルミリオンを達成
●平成7年(1995年) 3月/浜田雅功とH Jungle With tを結成。『WOW WAR TONIGHT~時には起こせよムーヴメント』を発表
8月/globeを結成
9月/華原朋美『keep yourself alive』を発表
10月/安室奈美恵『Body Feels EXIT』を発表
●平成12年(2000年)7月/「九州・沖縄サミット」イメージソング『NEVER END』を発表
●平成30年(2018年) 音楽活動からの引退を表明
●令和2年(2020年)7月/乃木坂46に『Route 246』を提供
12月/TM NETWORKとして活動を再開
<<小室哲哉がプロデュースしたおもなアーティスト>>
●宮沢りえ(1989年)
デビューシングル『ドリーム ラッシュ』から数枚のシングルのプロデュースを小室哲哉が担当。歌手でない女性に歌わせるという小室スタイルはこの時期に確立
●観月ありさ(1992年)
ファーストシングル『伝説の少女』で第33回日本レコード大賞新人賞を受賞。小室哲哉のプロデュースは4枚めのシングル『TOO SHY SHY BOY!』から
●trf(1993年)
現TRF。avexの邦楽第1号アーティストで、日本初のテクノ・レイヴ・ユニットといわれている。デビュー2年後の1995年にCD総売上枚数1000万枚を突破
●hitomi(1994年)
モデル、アイドルとして活動後、小室プロデュースのシングル『Let’s Play Winter』でCDデビュー。1998年に小室プロデュースを離れるが、その後もヒット曲をリリース
●篠原涼子 with t.komuro(1994年)
東京パフォーマンスドール在籍中にシングル『恋しさと せつなさと 心強さと』でデビューし、累計202万枚の大ヒットを記録
●華原朋美(1995年)
グラビアアイドル・遠峯ありさとして活動後、小室哲哉と同じイニシャルの「華原朋美」に改名し、ミリオンヒットを連発
●H Jungle With t(1995年)
ダウンタウンの浜田雅功と小室哲哉による音楽ユニット。デビューシングル『WOW WAR TONIGHT ~時には起こせよムーヴメント』は200万枚を超える大ヒット
●内田有紀(1995年)
3枚めのシングル『Only You』で小室ファミリー入り。計3枚のシングルを小室プロデュースでリリース
●globe(1995年)
小室哲哉、KEIKO、マーク・パンサーによる音楽ユニット。デビューアルバム『globe』は400万枚以上の売り上げを記録。小室哲哉自身がメンバーとして参加した数少ないユニット
●安室奈美恵(1995年)
ソロとして活動後、『Body Feels EXIT』で小室ファミリー入り。以降2001年まで小室プロデュースの作品をリリース。セカンドアルバム『SWEET 19 BLUES』は350万枚を記録
●dos(1996年)
日本版TLCを目指して作られた男女3人組のダンス・ボーカルユニット。シングル3枚とアルバム1枚をリリース
●鈴木あみ(1998年)
『ASAYAN』ボーカリストオーディション・ファイナルで1位となり小室プロデュースでデビュー。ファーストアルバム『SA』は250万枚を達成
写真・岩松喜平
(週刊FLASH 2021年3月16日号)