「宮澤家のなかでは、私は落ちこぼれ。引っ込み思案だし、勉強もできない。点数が悪いテストの答案用紙は、ベッドの下に隠していました。夏休みの宿題も8月31日までやらない、行きあたりばったりの、“ちびまる子ちゃん” みたいな子供でしたね(笑)」
第78代首相の故・宮澤喜一氏を祖父に持つ宮澤エマ(31)。『ワイドナショー』(フジテレビ系)のコメンテーターから、バラエティ、ニュースのMCまで、“孫タレ” の枠を超え、マルチに活躍中だ。
東大法学部卒で、戦後もっとも頭がよい首相といわれる祖父だけではない。彼女の父は、米国人で元駐日代理大使。「母も姉も米国の名門大学卒」というインテリ一家で育った。劣等感を抱きながら、幼少期を過ごした。
「たまたまテストで90点台をとったときも、祖父は、『満点以外の点数があるの?』という人でした。祖父なりのジョークなんですけど(笑)」
多忙を極めた祖父と、2人きりで買い物に行った記憶が1度だけある。8歳のころ、祖父に「誕生日に欲しいものある?」と聞かれ、SPを引き連れ、原宿に「たまごっち」を買いに行ったのだ。
「祖父の姿を見るなり、“モーゼの海割り” のように、大勢の人が避けていくんです。と思ったら、『宮澤さんですよね』と声をかける人もいて。そこで初めて、『祖父はすごい人なんだ』と思ったんです」
宮澤家の家訓は、「働かざる者食うべからず」。孫といえども、甘やかされなかった。
「トランプの神経衰弱で姉が負けて泣いていると、祖父は『泣いたら許してくれると思うな』と叱っていました。いま思うと、勝負の世界の厳しさを、教えてくれていたんです」
姉は成績優秀で、運動もできる優等生。小学生のとき、「姉に勝ちたい」との思いから選んだのが、演劇部だった。
「入部は、初めて自分の意思で決めたことなんです。『演技なら姉に勝てる』と、なんの根拠もない自信があって。父方の祖母がもともと女優志望で、そのDNAを私は受け継いでいたのかもしれません」
中学、高校は、「日本語も英語もできるように」という両親の方針で、インターナショナルスクールへ。そこでどっぷりと欧米文化につかったことが大きな転機となった。
「入学して最初のころは、登校拒否になるくらい嫌でした。でも、マライア・キャリーなどの歌姫や、ジャズの世界にふれて、合唱部、バンド、ミュージカルにも取り組んだ。そのとき、自分の方向性が、音楽にも向いたんだと思います」
大学は、米国西海岸のオクシデンタル大学に進んだ。
「『どうせなら、家族や親戚がいない場所に行こう』と。でも、ホームシックになって、YouTubeで、日本の1970年代歌謡曲にどっぷりハマりました。とくに、ちあきなおみさんの表現力に衝撃を受けて。『喝采』は、いまでもカラオケの十八番。年上の人に喜んでもらえます(笑)」
英国のケンブリッジ大学にも1年留学し、一度は、米国での就職を考えたという。だが、歌や芝居への情熱を断ち切れず、23歳で日本に帰国して芸能界へ。テレビ初出演となった『ネプリーグ』で、竹下登元首相を祖父に持つ、DAIGOと共演した。
「DAIGOさんは、『孫タレとして頑張ろう』と言ってくれたんですが、DAIGOさんは『おじいちゃんが消費税を導入したせいで、学校でいじめられた』とか、エピソードがおもしろくてオチがある。でも私にそんなネタはなくて。
『インテリ枠』でクイズ番組に出してもらっても、クイズが苦手。『何をやってるんだ』と、落ち込んでばかりでした」
歌と芝居がやりたい。そして挑んだのが、宮本亜門氏が演出するミュージカル。だが、楽な道ではなかった。
「稽古で延々1時間も駄目出しされて、悔しくて泣きました。後にも先にも、現場で泣いたのはあの1度だけです。でも初日を終え2日め、やっと亜門さんが『大丈夫。できているよ』と言ってくれた。やっと芝居ができた、という喜びが大きかったんです。
その後もオファーをいただけるようになって、『私の居場所は、ここかもしれない』と思えるようになったんです」
いまでも「総理の孫」と言われるのは、嫌ではない。
「でも、政治家には絶対になりたくありません。母が “首相の娘” として、祖父の大変な苦労を見てきて、『絶対に政治家にはなりたくない』と思っていたそうなんです。
祖父は、戦争を生き抜いて、『絶対にこの国をよくしたい』と誓っていた。そういう思いがなければ、政治家にはなれないし、なってほしくないですね」
2世、3世議員が起こす数々の不祥事。宮澤家の家訓、「働かざるもの食うべからず」を、いまこそ肝に銘じてほしいものだ。
みやざわえま
1988年、東京都生まれ。2012年にデビュー。ブロードウェイ・ミュージカル『ウエスト・サイド・ストーリー Season2』(2020年2月1日~3月10日)に出演する。近年、ミュージカルの演技力が評価を集めている
(週刊FLASH 2019年12月10日号)