人口が10分の1になった町で、月に10日だけ開く美容室がある。
福島第一原発から約10キロ離れた福島県富岡町。
少し歩けば、バリケードが行く手をふさぐ帰還困難区域だ。
11年前のあの頃。オーナーの佐藤幹子さん(53歳)は、2号店を開こうと準備していた。その胸には、こんな思いがあったはずだ。
2人の娘のどちらかでも、いつか店を継いでくれたらいいな――。
3月11日を境に、未来は一変した。自宅を追われ、避難と転居を繰り返した。悩み、苦しみ、限定的な形ではあるが、故郷で店を再開した。
ずっと思ってきた。
「こんな風になった町で、美容院を継いでほしいというのは、親のエゴだろうか」
原発事故から間もなく11年。母と娘の想いが、初めて交差しようとしていた。
10日だけオープンする被災地の美容室
美容室の名は「Mist」という。
東京から宮城までを結ぶJR常磐線「夜ノ森駅」のすぐそば。人影も少なく、静まり返った空気の中、店内では数人の来客とオーナーの幹子さんが手を叩いて笑いあっていた。正月の餅をどうアレンジするかで、涙を浮かべるほど盛り上がっている。
幹子さんが原発事故による避難で各地を転々とし、富岡で店を再開したのは5年前の2017年だ。今は神奈川県で夫と次女の3人で暮らしながら、月に10日だけ店を開けに来る。
訪れる人たちは、震災前からの顔なじみばかりではない。故郷に帰ってきた人、帰らないと決めた人、震災を機に移住した家族や復興作業員など、その境遇は様々だ。
娘を亡くした常連客…本音話せる美容室
ここはただ、髪を整えるだけの場所ではない。再開後、そんな思いを強くしてきた。
震災前からの常連客、白川幸子さん(59歳)は、オーナーを「幹ちゃん」と呼ぶ。たわいのない笑い話の中で時折、「あの頃」が顔を出す。
白川さんは、震災の津波で一人娘の葉子さん(当時26歳)を亡くした。娘は第2子の妊娠を確かめに産婦人科に行った帰り道だった。
「新聞で名前を見た時は、信じられなかったよね」
幹子さんと白川幸子さんの会話
幹子さんがそう言ってティッシュを1枚差し出すと、「大丈夫、まだ涙出ていないよ」と白川さん。2人は鏡越しに泣き笑った。
普段は吐き出せない「小さな本音」が、カットした髪の毛とともにこぼれ落ちる。
家を解体…それぞれの決断を受け止める
故郷とのつながりがこの美容室という人も少なくない。
秋元耕子さん(55歳)は、店から50キロ離れた郡山市から片道2時間かけて通ってくる。そして震災から10年目だった昨年、秋元さんは帰還困難区域にある自宅の解体を決意した。
「ご近所さんも解体したのに、うちだけ残しても仕方ない。戻ってくる予定もないからさ…」
髪を切ったら家に別れを告げに行くと話す秋元さんに、「勿体ないよ」とほかの来店客が言葉をかける。
秋元さんは笑いながら「そんなこと言わないで!悩むじゃん!」とだけ返した。間髪入れずに幹子さんが「もう自分の中で決めたんでしょ」とカラーする手を止めずに呟く。しばらくすると、また家族や友人の笑い話になっていった。
同じ町で暮らした者同士だからこそ話せること、言わなくてもわかる思いがある。
シザーケースを付けたまま突然の避難
富岡町には県内有数の桜の名所がある。2キロ以上に連なる桜並木が、空を覆い隠すように咲き競う“夜の森の桜”。
桜が大好きな幹子さんは2002年に町のシンボルでもある桜が見える場所にMistをオープンした。2人の娘を育てながら、多い時には4人の従業員を雇った。
全長2.2キロの「夜の森桜トンネル」は大部分が福島第一原発事故に伴う帰還困難区域内
2号店の計画をしていた矢先、震災と原発事故が起きた。「すぐに戻って来られるだろう」と思い、高校生と中学生の娘を車に乗せ、避難した。幹子さんの腰には、ハサミやコームの入ったシザーケースが付いたままだった。
悔し涙…避難者への心無い言葉
そのまま自宅に帰れなくなり、郡山市にたどり着いた幹子さんは、震災から1年後、2号店用の自己資金を切り崩し、避難先で美容室を開いた。
富岡の人たちが来やすいよう店名はMistのままにした。看板を見て入ってくる常連客と再会を分かち合い、涙した。
しかし当時、原発避難者には補償などを巡り、心無い言葉をかけられることが少なくなかった。
客の中には新聞を見ながら「この人たちはいつまでも遊んで暮らしていていいね」と幹子さんを避難者と知らずに話を振ってくる人もいた。
「ここで頑張ろうと思っていた時に、なんでこんな思いをしないといけないんだろう。でも…しょうがない」
一人になると、悔しくて涙がこぼれ落ちたという。
母としての意地…「手作りのお弁当」
夜、思春期真っただ中の愛娘の寝顔を見ながら思う。自分と同じように、この子たちもきっといろんな葛藤を抱え込んでいるだろうなと。
「同じような思いは、絶対にさせない」
「避難者」と言われないよう、幹子さんは住民票を移し、進学に伴う避難者向けの教育費支援を断った。
いくら疲れていても、娘たちのお弁当は手作りにこだわった。母親としての意地だった。その後、娘たちは避難先で高校を卒業し、美容学校へ進学した。
「幹ちゃん、富岡でやってよ」
事故から6年後の2017年、富岡町の一部で避難指示が解除されることが決まった。Mistはそのエリアに入っていた。
幹子さんは一瞬、胸が躍った「もしかしたら、また故郷で…」。しかし、すぐに不安が持ち上がる。「一体どれくらいの人が町に戻るのか…」
避難先でも常連客との繋がりは途絶えることなく、営業は順調だった。ただ、その中でも町に戻るという人は少なかった。故郷は復興関連の作業員たちの出入りは多いが、暮らす人はほとんどいない。すでに進学した娘や家族のこともあり、居を移すことはできない。
ただ、なじみ客から言われた「幹ちゃん、富岡でやってよ」という言葉が、ずっと引っ掛かっていた。
「若い人は戻って来ないよね…」
その年の8月、幹子さんは車で富岡のMistに向かっていた。Mistがあるエリアの避難指示が解除され、期間限定で営業させることを決めたのだ。当初は月に2日間だけだった。
約6年半ぶりの店内。長い髪をたくし上げ、ハサミを握ると、胸が詰まった。
「ようやく…ようやく戻って来られた…」
そして、鏡に映る自分の姿を見て胸が高鳴った。店の再オープンに、懐かしい顔が次々訪れた。再会を喜び、髪を切りながら、お茶飲み話をした。あっという間に時間は過ぎていった。
富岡をあとにする時、町内に張り巡らされたバリケードが目に入る。その先は放射線量が高く、立ち入りが規制される帰還困難区域。ゲート越しに見える住宅街、慣れ親しんだ地域の人たちの顔が思い浮かぶ。
「この町を見て、この現状を見て、若い人は戻って来ないよね」
「原発から避難してきた」とは言えない…次女の葛藤
その後、夫の仕事の関係で神奈川県に引っ越すことになった。富岡までは電車と車で約5時間、それでも毎月欠かさず通い続けた。
2人の娘は美容師になっていた。結婚を控える長女(28歳)は親元を離れ、埼玉でスタイリストとして働き始めていた。次女・二菜さん(25歳)は見習い美容師として神奈川の美容室に勤めていた。
二菜さんは避難生活が始まった中学2年以来、故郷に戻ることはほぼなかった。天真爛漫な性格で、部活のソフトテニスに打ち込み、いつも友達に囲まれていた。しかし、避難で仲間は散り散りに。転居した先々で、「原発から避難してきた」とは言えなかった。心無い言葉をかけられるかもしれないと、怖かった。
チクリと痛い「故郷に帰る」との言葉
二菜さんが勤める美容室は、窓から高層ビル群をのぞむ大都会の一角にある。震災後、口にできなかった故郷の話も今では交わすようになっていた。
「ご実家も美容室なんですか?」との問いに、富岡町出身であること、母とMistのことを話す。「素敵ですね」との言葉に、思わず微笑む。
ある日、二菜さんが担当した女性は、同じ富岡町の出身者だった。自然と表情が緩む。話は、やっぱり故郷自慢の“桜のトンネル”だ。女性の実家はすでに解体したという。「仕方ないよね」という言葉に、二菜さんは静かに頷くだけだった。
長期休暇が近づくと同僚たちの話が耳に入ってくる。
「実家に帰るよ」「故郷に戻るんだ」
何気ない言葉が二菜さんには、チクリと痛い。
「やっぱ羨ましい…。帰りたくても、私、帰れなかったので」
「やっぱり良い訛り~!」
震災から9年目となる2020年3月11日に向け、幹子さんが「富岡ついてこない?」と二菜さんを誘うと、あっさり「いいよ」。
二菜さんが再開後のMistに来るのは、これが初めてだった。幹子さんのサポートで、シャンプー台に立つ。馴染みの“おばちゃん”に「娘の二菜です」と挨拶すると、「えぇ~分かんなかった~」と東北訛りが返ってきた。
「久しぶりに来て、やっぱり良い訛り~!」
はじける笑顔で、いつも明るく温かい店内が、一層華やかになった。
懐かしい故郷の人との再会シーン
そして、地震発生の午後2時46分、町中に鎮魂のサイレンが響き渡った。9年前を思い出し、涙する女性に「やっぱり思い出しちゃうね」と、幹子さんも涙ぐんだ。
故郷で、店を愛してくれる人たちに寄り添おうとする母の姿を、二菜さんはじっと見つめていた。
こぼれる幹子さんの本音「娘にまだ言えない…」
富岡町でも復興に向けて整備は進んでいた。大型のスーパーができ、駅には電車が通るようになった。徐々に住民も増え、「故郷でのリスタート」が目に見えるようにはなってきた。
ある日、幹子さんは客の男性(58歳)をカットしている際、こんな会話を交わした。
男性は会社を辞めて富岡に戻り、亡き父が遺した農地や家を継いだという。すると、いつも聞き役の幹子さんが、自分のことを話し始めた。
「自分はこの仕事を続けて富岡でやっていきたい。でもそれを子供が継いでくれるかって言ったら、強くやって欲しいとは言えないし。そういう気持ちだけを通すのも、親のエゴかなって」
静かに相槌をうちながら、男性は「子供は、親の背中見てますよ」と声をかけた。
「でも、怖くて子供に聞けない」という幹子さんに、男性は言葉を飲み込んだ。男性にも家業の後継ぎはいなかった。少しの静寂の後、幹子さんの本音がこぼれ落ちる。
「私の口からは…まだ、言えない。娘に帰って来てって」
幹子さんと男性客との会話シーン
故郷の美容室で、娘と…
二菜さんは、時々幹子さんと一緒に店にやってくるようになった。富岡の利用客と屈託なく話す娘を見て、幹子さんは穏やかな表情を浮かべていた。
「二菜が富岡で私が大好きなお客さんと楽しそうに話している様子が微笑ましくて。幸せだなって。もう、こんな瞬間はそうそうないかもねって思ってね…」
幹子さんは、スマートフォンを構えてその様子を撮影していた。
突然の告白…その理由は
昨年の大晦日、幹子さんと二菜さんは川崎市の自宅で夕食を囲んでいた。
すると、お酒を飲んでいた夫が「来年の抱負は?」と、水を向けた。
幹子さんは、淡々と「来年も変わらず同じように、私は家のことと、富岡に行って仕事と、1年また続けていくのが目標」と言った。
二菜さんが話した決意とは…
隣に座っていた二菜さんは、ちょっと真顔になり、遠くを見つめながら話し始めた。
「来年は、スタイリストになって技術も身につけたい。その後は、ママの仕事を手伝いたい」
突然の告白だった。
表情を変えない幹子さんを、少しこわばった表情で二菜さんが見つめていた。
幹子さんが小さな声で「頑張れる?」と聞くと、「二菜、頑張る」と答えた。
なぜ二菜さんは、店を継ぎたいと思ったのか。母のいないところで、大粒の涙を流しながら、本当の気持ちを教えてくれた。
「小さい時から育ってきたところだし、思い入れがあるから、故郷を失いたくない」
あの日のシザーケースは…
年が明け、Mistには2022年の朝日が降り注いでいた。
今年もまた、幹子さんの「10日間」が始まる。店内の掃除を済ませて、いつものように髪をたくし上げる。
「仕事するときはこれじゃないとね。きょうも賑やかになりますよ」と、表情はいつも以上に晴れやかだ。
「二菜の気持ちを聞いて胸が熱くなった。娘がまさかそんなことを考えていたなんて…大切な憩いの場を子供たちに繋げていきたい」
富岡では今年1月、一部の帰還困難区域内の規制が緩和された。ゲートが撤去され、通行ができるようになった。
来年の春には、このエリアの避難指示が解除される予定だ。
あの日、避難していた時に付けていたシザーケースを付けて、幹子さんは今日も髪を切る。
桜の名所、富岡町・夜ノ森駅前にひっそりと佇む美容室Mist。
桜の木は今年も大きなつぼみを付けて、春を待っている。
(取材・執筆:直川貴博)
この記事は、福島中央テレビによるLINE NEWS向け「東日本大震災特集」です。