「大津波があって波が引き返すところだった、車や巨大なタンクなどが流されていった」
協力企業から東京電力に出向中で、数年後に定年を迎えるはずだった梅松悟さん。
当時、60歳。福島第一原子力発電所の事務本館にいる時に、東日本大震災のM9の揺れに襲われた。
地震発生時の福島第一原発
建物の外に出た際に、原発を襲った大津波の引き潮でさらに原発の施設が破壊されていく光景を目の当たりにした。
第一原発には6つの原子炉があった。
地震で電線の鉄塔が倒壊し外部電源を失っていたが、非常用発電機が稼働し冷却機能は維持できていた。
しかし、津波により1~4号機は非常用発電機が浸水し、全ての電源を失ってしまう。
緊急対策室が設置された重要免震棟に駆けつけると、人で溢れかえっていた。そこでは東電の幹部たちが血相を変えて動き回っていた。
「作戦」の始まり
梅松さんは電気関連の部署に所属していたが、原子炉が冷却できない状態になっていると分かったのは、午後7時ころだったという。
このままでは核燃料が解けるメルトダウンとなり、原発の一帯は人が住めなくなるほどの汚染が広がってしまう。
「原発で全電源喪失が起きることはあり得ないことだった。それが現実に起きたんだなって、ものすごい緊迫感はありました」
梅松さんは電気工事のベテラン技術者。
東電の職員や他社の作業員からも「梅さん」と頼りにされるほどだった。
中学卒業後に職業訓練所で技術を習得し、40年以上、発電用ダムや原発などさまざまな工事現場での経験がある。
高度成長期を支えた日本の技術力を誇りに思い、自らが原子力発電の仕事に携わっていることを親戚などに胸を張って語っていたという。
梅松さんたちは作戦を練り始めた。
電源を復旧させるためには、発電ができる車両「電源車」を原子炉建屋に近づけ、電源ケーブルを繋いで原発に接続しなくてはならない。
電源車の道、切り開くのは
ただ当時は、その「電源車」を原子炉建屋に近づけることすら難しい状況だった。
津波によって、原子炉建屋周辺はさまざまなガレキが打ち上げられていた。車両が通行できる状態ではなかった。
この根本的な問題に立ち向かったのは東電職員でも、自衛隊、消防、警察でもなく、地元の人だった。
栃本良重さん。従業員10人ほどの地元企業の専務だ。
当時は51歳。
地震直後、原発の重要設備が破壊される瞬間を目撃した。
「斜面にある鉄塔が地震で崩れて、バシャーってスパークを起こした。ピンク色だった。10メートルから20メートルのスパークだった。鉄塔がカチャって折れて根足がとられた」
栃本さんは当時、原発の耐震工事の下請け企業として敷地内のプレハブを事務所にしていた。
揺れを感じたのはプレハブ前の駐車場。立っていられないほどだった。
さらに地震の後は津波が押し寄せ、自家用車などが流された。だが自社のパワーショベルは、キャタピラの部分が浸水した程度で助かったという。
栃本さんは被ばくのことを気にして、もともとは原発関連の仕事を積極的に受注することはなかった。
それがたまたま、原発事故に遭遇してしまった。
「あ、これ何かが起きんじゃねーかな、やばいんでねーかなぁって思った」
「ちょっと行ってくる」
栃本さんたち協力企業の作業員たちはいったん、免震重要棟前の駐車場に集合した。
点呼をとり、無事を確認。その後、元請け企業から「解散」との指示があった。家族や家が被災した人もいると予想されたためだ。
その際、他の作業員たちが話していたことを覚えている。
「水素爆発起こさないように、どこか息抜きするとかって話はチラっと聞いた」
水素爆発。
聞きなれない言葉だった。
とはいえ、自分にはあまり関係のない話に思えた。
妻や息子たちのことも心配だったため、約13キロ離れた自宅に帰ることにした。
原発敷地内に置いていた車は、津波で流されてしまった。知り合いの車で自宅まで送ってもらった。
普段は車で30分ほど。だが、道路という道路が避難のために大渋滞で、約2時間もかかった。
家に着いて、家族の無事を確認した時に、元請けの企業から電話が入る。
「第一原発の復旧やっぺ?」
第一原発内の道路は至る所に段差ができたり、ガレキに阻まれたりして車両が通れない状態だった。
栃本さんは道路の復旧程度ならすぐに行って、すぐに帰って来れるだろうと思った。
家族には「ちょっと行ってくるから」とだけ伝え第一原発に向かった。
午後7時半ころだった。
電源復旧、恐怖との闘い
梅松さんは、東電や協力企業の若手を集めていた。
原発の電源を復旧させるため、接続する電源ケーブルの取り扱い方やルートなどを説明する。
ケーブルは「トリプレックス」という特殊な高圧ケーブルで、引きずると破損してしまう恐れもある。
1メートルで約6キロも重さがあるケーブルを、外に停車させた電源車から電源盤に接続させる。
複雑な構造をしている建屋内を通すその長さは、約150メートルにも及んだ。
メンバーは、こうした機材の取扱い方すら知らない若手たちばかり。
しかも、短時間で完了させなければメルトダウンしてしまい、自分たちも致死量の被ばくをしてしまうかもしれない。
電源さえ復旧できればこの危機を脱することはできる。
ただ、状況も加わって、作業は困難を極めるものだった。それができるかは、梅松さんにかかっていた。
「絶対怖くない人はいないと思うんです。絶対怖いですよ。ただ、怖いのとビビるのは違う。ビビってる連中、行きたくないってのがいるんですけど、我々は確かに怖いです。ものすごくおっかないですよ。未知のとことにいくんだから、だけどビビるのとは違う。怖いけど、普通に行動するわけです」
この時、東電への出向社員は約50人いた。だが、梅松さん以外は全員、帰宅させることになった。
東電の上司が梅松さんの技術を頼って引き留めたのだ。
出向中の身でもあり、どれほどの被ばくをするかも分からない状況。現場を離脱することもできた。
それでも、梅松さんは自分の心の声に従った。
「私の力量が試されるところだと思いました。逆にここで自分の技術がいくらかでも役に立つのであれば本望だと思った。日本が沈むか浮くかの時に放射線量が高いから、怖いからやめるなんてできない」
妻や息子たちと連絡が取れない状況は続いていた。
それでも一人の技術者として、原子炉建屋の傍で収束作業に身を投じることを決めた。
誰も知らなかった「功績」
しかし、まだ電源車が原子炉建屋近くまで行ける状況ではなかった。
そこに至るまで、道路の復旧が進んでいなかった。
地震で生じた道路の段差は、最大で1メートルはあった。
栃本さんたち協力企業の作業員たちが現場を確認し、対応を検討していた。
敷地の外の採石場から砂利を持って来て段差を埋める案が出されたが、時間がかかり過ぎる。
栃本さんは「要は車が通れればいいんだべ」と考えた。敷地内にあった自社のパワーショベルの鍵を回すと、エンジンがかかった。
先端のバケットで段差ができていた部分の道路の舗装を剝がし始めた。
そして、舗装の下にある砂利を削り出し、擦り付けるようになだらかな斜面にすると、なんとか車が通れる状態ができた。
「俺がパワーショベルで道を作ってる時は見てる人の方が多い感じだったな。こっちだ、あっちだって言われても、暗かったから、こうしろ、あれしろって言われたけど、そんなこと聞かないで作業したけどな」
この時、現場で重機を使って道路を復旧させたのは栃本さんだけだったと言われる。
一人でわずか3時間で原発内の道路をほぼ全て車が通れる状態にしたという。
電源を復旧させるための電源車も、原子炉を冷却するための消防車も、栃本さんがいなければ現場に近づくことすらできなかった。
この事実は、ほとんど知られていない。
道路の復旧を急ピッチで進めた結果、深夜には原子炉建屋近くまで車が通れるようになった。
栃本さんはその後、他の協力企業の作業員と協力し原子炉建屋周辺に散乱していたガレキの撤去にもあたった。
1週間後、燃料の冷却のため現場に入った東京消防庁のハイパーレスキュー隊の幹部は、当時の様子をこう語っている。
「原発の山側は石ころ一つないほどきれいで、車両がスムーズに入っていけた。予想外だった」
相次ぐ中断。進まぬ作業
11日の午後11時ごろ、1号機原子炉建屋内で高い放射線量が確認され、建屋内への入域が禁止された。
メルトダウンが始まり、炉内の圧力が急上昇していることが推測された。
その1時間後の12日午前0時ごろ、核防護上のゲートを壊し、高圧ケーブルを積んだトラックと電源車が原子炉建屋へと向かっていった。
現場を指揮するのは梅松さん。
2号機原子炉建屋の電源設備拠点に電源車を接続させれば、1号機の一部電源も回復し、冷却設備が復活するとみていた。
放射線量が上昇している原子炉建屋の傍で電源ケーブルを敷き詰める。
リスクの高い作業が始まろうとしていた。
ただ、作業は幾度となく中断を余儀なくされる。震度5や4クラスの余震が相次いでいた。
巨大津波の襲来を経験しているため、揺れに襲われる度に現場から退避せざるを得ない。梅松さんはそれがもどかしかった。
「実際には5,6時間あれば電源復旧はできるくらいの予定だったんですけど、余震がある度に作業を中止して引き上げてきなさいとか、みんな安全第一でやってるものですから。なかなか進まなかった。一晩徹夜でやってるんですけど大半は手を動かしていない時間の方が多かった」
基準の約3万倍…大量被ばく
数時間後の12日午前3時。
当時の枝野幸男官房長官(当時)が会見で、1号機原子炉の圧力を抜く「ベント」を指示したと公表する。
内圧を下げなければ、核燃料を収納している鋼鉄製の圧力容器ごと爆発を起こす。
そうなれば、周辺に膨大な放射性物質を撒き散らしてしまう。
しかし、原子炉建屋内ではベントに必要な「弁」を開ける作業が難航を極めていた。
東電の原発運転員たちが決死隊をつくり、弁がある場所へ突入していくが、あまりにも高い線量のため引き返さざるを得なかった。
12日の午前6時ごろ、その建屋のすぐ外では、梅松さんたちによる電源ケーブルの接続作業が本格的に始まった。
梅松さんは作業の進捗を、PHSを使って逐一対策本部に報告していた。現場は電波状況が悪く、通話可能な場所を探して動き回っていた。
無意識のうちに、1号機の排気塔に近づいてしまう。
ちょうどその時に、外部からの操作で弁が開きベントが成功した。
膨大な放射性物質を含んだ蒸気が、梅松さんの傍の排気塔を一気に通り抜けていった。
「排気塔の近くにいた時に、少し前まで線量計が反応しなかったのにいきなりピピピと急に反応しだした。まさかと思いながらも作業を続けるしかなった」
一般の人が法律で定められているのは1年間で1ミリシーベルト以下だ。
それに対し、梅松さんはわずか1日で80ミリシーベルトを超える被ばくをしてしまった。
ケーブル接続、成功したのに…
ベント成功は、12日の午後2時30分ごろの出来事とされている。
この直後、夜を徹して作業を続けてきた電源ケーブルの接続作業が完了する。
電気を流せば、電源が復旧するところまできた。
しかし、梅松さんたちはその場から離れ、対策本部へ一旦、引き上げることになる。
「発電所関係はどこでもそうだと思うんですけど必ずみんなに周知して許可をもらってから次の作業をやるので。自分の判断だけでは進められないんですよ。必ず、何々が終了しました、何々チェックをしますということを、通常であれば運転員に指示して自分の上司にも承知してもらってから次の作業に進む」
梅松さんたちが対策本部に着いた、まさにその時だった。
「ズシーンとかズドーンとかではなくて、ポンっていう響く音だった」
12日、午後3時36分。
1号機が水素爆発を起こす。
原子炉建屋に充満した水素が、何らかの原因で引火し爆発した。
大破した建屋のコンクリートなどが、ものすごいスピードで原発敷地内に飛び散った。
「空いてる車を探せ!」
梅松さんは、近くにいる作業員たちに怒鳴るように叫んだ。
頭上には放射能に汚染されたガレキや断熱材が落ちてくる。これに触れただけでも相当の被ばくをすると察知した。
近くにたまたま消防車があった。前列と後部座席の列に次々と作業員たちが我先にと乗り込んでいく。
通常なら6人程度しか乗れないスペースに、10人以上が殺到した。ドアを閉め、約10分。息を飲みながら、汚染物質が通り過ぎるのを待った。
「もう後戻りできない。あぁ、やっちゃったなぁっていうとんでもないことになったなぁと思った。それから腹は据わりました。チェルノブイリみたいなことになれば敷地の中にいても外にいても同じですからもう」
10年たっても消えぬ「後悔」
この水素爆発により、電源ケーブルは破断した。
周辺には、再びガレキが散乱してしまった。
2号機、3号機で進められていた復旧作業も振り出しに戻り、その後の危機へと連鎖していくことになる。
梅松さんたちが接続したケーブルに電気をすぐに通し、1号機の水素爆発さえ防げていれば…
その後の未来は変わっていたかもしれない。当時を振り返る梅松さんの表情からは、苦渋の色がにじむ。
「その時、指揮を出す人間が現場に一緒にいて、もしくはお前に任せるからってやれば、ケーブル繋がった!送電!って送電できるんですよ。そこでもうコントロールセンター生きてるんですよ」
「せっかくケーブルがつながって、電気がそこまであるのに、はいエンジンとめてみんなして事務所にあがってとなったのが非常に残念だなと思う。今になってみれば少し悠長なことをやっちゃったのかなという気もしますね」
梅松さんは翌日も、電源の接続作業などにあたった。
だが、被ばく量があまりにも多かった。14日からは現場で作業をすることを認められず、15日は原発の敷地外へ退避することになった。
その時、震災後初めて長男と電話がつながった。
梅松さんはこう告げたという。
「ギリギリの状態でやっていることは間違いないけれど、パニックにはなっていないから安心せい!」
梅松さんは1週間後、再び第一原発に戻ってくる。
現場での作業はできないが、放射線下の現場で作業をする人たちの食料や飲み物を準備するなど身の回りの世話ならできた。
「彼らがいなければ、事故は収束しないからね」
恐怖より「何とかしないと」
道路の復旧とガレキ撤去にあたっていた栃本さんは、1号機爆発の時は重要免震棟の中で休憩していた。
「なんか爆発したというか。これ何だべななんて思ったよね、また地震かななんて、いや違うなガタガタって地震とは違う衝撃がすごかったね」
しばらくして外へ出てみると、至る所にコンクリートや断熱材などが散乱していた。
もう一度これを片付けないと、車両が通過できない。そう思い、原子炉建屋の傍らで作業を再開する。
「放射能が出てると思うんだけど分からなくてだいたいどれくらい浴びたらどうなんだっていうかさ。APD(=線量計)を持つ自体も分からなかった。うちら管理区域外だからそういうのはもってなかったよね」
周囲では、いつまた爆発が起きるかもしれない現場へ向かうことに恐怖を感じる作業員も出始めた。
頭上からコンクリートの塊が降ってくる、さらに大量の被ばくをしてしまう現場だ。恐怖を感じないという方がおかしい。
ただ、栃本さんには別の思いが芽生え始めていた。
「怖いってよりも、なんとかしねっかなんねーなってニュアンスだべ。地元だからなおさらなんとかしねっかなんねーな、できることはやるしかねーなって気持ちになっていったんだな」
守りたい「日常」
栃本さんが生まれ育った福島県双葉郡は、原発が建設されるまでは「福島のチベット」と揶揄されていた。
それほどに、貧しい地域だった。
栃本さんの父は農閑期になると、関東などに出稼ぎに行った。
生活するため、子供に食べさせるために、多くの家庭がそうしていた。
月に1回帰ってくるか来ないかで、家族の団らんなど経験したことがなかったという。
出稼ぎで懸命に働いた父親は、ダンプカーの操作を覚えて地元で栃本重機を起業した。
その後、原発ができ、地域に仕事や雇用が生まれ、初めて家族の団らんが生まれたのだ。
生活が落ち着き、孫と遊ぶ父の姿が微笑ましかった。
「孫と親父は、落ち着いてから結構遊んでたっつーかさ。機械に抱っこして乗せたりして。遊びながらいろんなことはやってたけどね、孫は可愛くてへへへ」
父の代が礎を築き、それぞれに育んできた家族の日常がこの地で続いている。
危険を極める現場にいながら、栃本さんは地元の人間として、そのことを強く思い起こしたという。
避難するか。原発に戻るか
栃本さんは車両が通れる道をつくっていった。
どれほど汚染されたガレキか分からなかったが、重機で近づき次々と撤去した。
さらに、東電職員や作業員たちがマイクロバスで避難しようとする際のことだった。
「バスに人は乗ったはいいが、運転手誰かいないですかねって言われて、みんなシーンとしちゃって。誰かが手をあげねーとあれでねーかなって。俺が運転してやっからって。できることやってやっぺという考えだった」
避難用のバスの運転手をするということは、再び避難に使えるように、原発にバスを戻すということだ。
避難しようとする人たちはもう原発に戻らない。避難する人たちを乗せたバスを運転し、原発の敷地外の中学校に向かった。
そのまま避難をしようかと頭をよぎった。
だが栃本さんは、再び原発に戻った。
「戻りたくないという思いもあったけども原発で作業している人がまだいたからね。ここで家に帰った方がいいかななんて思いながらもまた1F(福島第一原発)に戻ったんだな」
特殊部隊と"地元企業のおじさん"の共闘
原発に戻った栃本さんは、ガレキの撤去作業の他、原子炉を冷却する水を確保する作業にも参加する。
敷地内をあちこち回って施設に溜まっている水を汲んでは、消防車に運ぶ。
この時、原子炉を直接冷却する機能は失われていた。
そのため、外部から原子炉に直接注水できるパイプに消防のホースをつなぎ、冷却を試みていた。
14日、栃本さんが作業にあたる現場に、陸上自衛隊がやってきた。
放射性物質などの化学兵器への対処能力を持つ中央特殊武器防護隊だった。
隊を率いる岩熊真司隊長ら6人は、原子炉建屋近くにあるろ過タンクから自衛隊の給水車に水を入れたあと、3号機へ向かっていった。
栃本さんたちも同じタンクから、水を散水車に入れていた。その時だった。
「ドカーンって。上を見上げると、きのこ雲みたいな感じだった」
14日午前11時1分。3号機が水素爆発を起こす。
再び頭上から無数のコンクリートの塊などが落ちてくる。自衛隊の隊員らがその真下にいた。6人中4人が重軽傷を負った。
1人は出血し、内部被ばくの恐れがあるため自衛隊ヘリで千葉県の放射線医学研究所に緊急搬送された。
栃本さんはすぐに車を走らせ現場を離脱した。
二度の水素爆発を目の当たりにした栃本さんだったが、再び散乱したガレキの撤去などにあたる。
「東電が困っていて何とかしてくれって言われれば、ダメですとか簡単には断れなかったんだね。一緒にやるしかねーのかなってはその時は思ったね。事態を好転させるとかそんなこと考えながらやってたらできないと思うわな。逆に言ったら」
14日の夜、ついに栃本さんにも退避命令が出る。
「後はお願いします」とショベルカーの鍵を東電職員に渡した。
東電や原発との関係が決して密接ではなかった一人の作業員が、死と隣り合わせの現場でギリギリまで奮闘した。
栃本さんも梅松さんと同様に、のちに再び第一原発に戻ってくる。
退避している2週間で、原発の燃料プールに注水するコンクリート圧送機の遠隔操作方法を学び、事故の収束作業の一線に立ち続けた。
奮闘の末…発災から10年
梅松さんや栃本さんが退避した後、自衛隊や警察庁、東京消防庁、東京電力の復旧部隊などが現地入り。
原発の暴走は食い止めることができた。
政府内では当初、東京にすら人が住めなくなり東日本が壊滅するほどのシナリオが想定された。
だがその危機は、各方面の尽力で何とか免れた。
定年を控えたベテラン技術者、原発とは関わりの薄い小さな地元企業の専務。
2人は今も「力不足で役に立てなかった」と当時を語る。
梅松さんは今、現役を引退し、自宅で妻と2人で過ごしている。木工制作など趣味の時間が生きがいとなった。
あの日、1日で80ミリシーベルトという大量被ばくをしたが、70歳となった今でも健康そのもの。
「この程度の被ばくでは何もないですよ」と梅松さんは笑顔で話してくれた。
被ばく量の増加に伴いガンが増えるのは、同100ミリシーベルト以上とされている。
栃本さんは、栃本重機の社長となった。
今もなお、被災地の復興・復旧工事を支えている。
※東日本大震災の発災10年に合わせ、LINE NEWS提携媒体各社による特別企画を掲載しています。今回は福島中央テレビによる特別企画記事です。