「地獄絵図」にうなされても…夢追う息子に誓った牧場の再建「僕の代で潰すわけには」 #知り続ける
人口が500人に満たない小さな山村がある。福島県葛尾(かつらお)村。
日本テレビ系列で放送している「ザ!鉄腕!DASH!!」の企画、福島DASH村でコメ作りを進めている村でもある。
そこに1軒だけ、牧場がある。
牧場主は言う。「酪農家にとって、牛は家族と同じだ」
12年前のあの事故によって、地獄を見た。
避難を余儀なくされ、置いてきぼりにした牛たちは、逃げ出し、餓死した。生まれたばかりの子牛の亡骸に、絶望した。
7年半待って再起したが、困難の歩みは今も続く。「あっという間だったなんて、言いたくない」と牧場主は呟く。
絶望の中に射した、かすかな光。それは、かつてあった当たり前の営みが全て失われ、絶望してもなお「父のようになりたい」と言ってくれる息子の存在だった。
親子の苦闘を追った。
「牛と残って死んでもいい」
佐久間哲次さん(47歳)は、葛尾村にある佐久間牧場の3代目だ。北海道で酪農を学び20歳の時に跡を継いだ。少しずつ牧場の規模を拡大し、2010年当時、130頭もの乳牛を育てる福島県内で有数の牧場に成長させた。
経営が軌道に乗っていた2011年3月、東日本大震災が発生した。
自宅は内陸の山の中にあり津波被害は受けなかった。しかし、東京電力福島第一原発で全電源が喪失する事故が発生。放射能が広範囲に飛散し、国は原発から3キロ、5キロ、10キロ、20キロと住民への避難指示エリアをどんどん拡大していった。その一部に葛尾村も含まれていた。
妻と当時6歳の息子、そして両親を連れて避難しようとした。しかし、長年牛の世話をしてきた父の信次さん(当時60歳)が、涙ながらに抵抗した。
「牛とここに残って、死んでもいい」
父の思いは痛いほどよく分かる。それでも、家族を守るために、村から逃げるしか道はなかった。
「避難先から通いながらでも、牛たちの世話はできるはず…」
哲次さんは自分にそう言い聞かせ、いつものように牛たちにエサをあげて車に乗った。遠のいていく牛たちの鳴き声を背に、親戚がいる茨城県つくば市に避難した。
その直後だった、原発が次々と水素爆発を起こしたのだ。
「地獄絵図のようだった」
放射能の被害から村民を守るため葛尾村の松本允秀村長(当時)は「全村避難」を決断した。村から全ての住民が別の自治体へと退避する。その最中に近所の人から「佐久間牧場の牛舎にいた牛たちが逃げている」と聞いた。
避難と同時に人生をかけた酪農という生業が失われてしまうかもしれない。哲次さんはいてもたってもいられなかった。
震災から1週間後の3月18日、被ばくを覚悟でありったけのガソリンを集めて牧場に向かった。そこで目にしたのは、変わり果てた牛たちの姿だった。
「何頭もの牛が死んでいた。生まれたけど死んじゃった子牛も何頭もいて地獄絵図のようだった。その時の“ギャー”っていう牛たちの叫び声がずっと耳に残っています」
当時を思い出しながらインタビューに答える佐久間哲次さん
逃げた牛、餌をもらえず痩せこけた牛、牛舎から出られず餓死していた牛…助けられなかった牛たちの姿が頭から離れなかった。
夢でもうなされ、眠れない日々が続いた。牧場や自宅は、立ち入りや居住が制限される区域に指定された。生き残った牛たちも北海道の牧場へ預けるか、売りに出して、すべて手放した。
代々続いてきた生業を失った。
長男・亮次さんが村立の学校に通い続けた理由
佐久間さん一家は避難所を転々とした後、葛尾村から約30キロ離れた郡山市に避難した。哲次さんは牧場から何とか持ち出した重機を使って、陸上競技場の整備などの仕事を見つけたが、賠償金を切り崩しながら暮らす日々が続いた。
長男の亮次さんは、震災が起きた翌月に村内の小学校に入学するはずだったが、村全体で避難することになったため一時村立の学校は休止となった。その間、亮次さんは避難先の自治体にある学校に通うことになったが、2013年に郡山市の隣にある三春町で、使われなくなった校舎を借りて村立の小学校を授業を再開することになると、亮次さんはすぐにその小学校に通うことを決めた。
愛息はかつて、村の広報誌に「将来の夢」として、こんなことを書いてくれた。
「お父さんといっしょに牛のお仕事がしたい」
子牛にミルクをあげ、親牛の背中をそっとなでる。牧場は息子にとって日常であり、遊び場だった。避難生活が長引くにつれて、転校する生徒が増えた。亮次さんが中学生になる頃には、同級生はわずか3人に。全校生徒は15人と、震災前の4分の1ほどに減った。
それでも、亮次さんは村の学校に通うことにこだわり続けた。そしてまた、こう口にするのだった。
「僕の将来の夢は、酪農家になることです」
幼児のころの無邪気な夢とは、違った重みを帯びていた。子供ながらに秘めた覚悟のようなものがあった。継いでくれたら、佐久間牧場の4代目になる。父の哲次さんは、ついに動き出した。
親子で繋いできた牧場を自分の代で終わらせたくない―。
何とか、息子に継がせてやれる状況にしてやりたい―。
「僕の代で潰すわけにはいかない」
震災から5年ほどが経過した2016年6月12日。環境中から放射性物質を取り除く除染が進み、放射線量も下がったことから、ようやく避難指示が解除された。
だが、すぐさま村に戻り酪農を再開するというわけにはいかなかった。牛のエサを育てる東京ドーム8個分の牧草地は、まだ避難指示が解除されなかったからだ。
輸入には頼らず、自分で栽培した牧草を牛に食べさせ、安心・安全な牛乳をつくることが、酪農家としてのプライドだった。
荒れ果てた牧草地を目の前にすると、虚しさだけが募り、牧場再開への道を閉ざされた気持ちになった。けれど、立ち止まる訳にはいかないと思った。
哲次さんは借金をして牧場の周辺に広大な土地を購入した。そして郡山市の避難先から車で1時間かけて通い続け、重機で切り開いた。牧草を作れる農地を整備するまでには、2年ほどかかった。その場所で試験的に、エサとなるトウモロコシや牧草の栽培を始めた。
「だってこれであきらめたら、負けみたいな感じじゃないですか。負けず嫌いというか、逆境を跳ね返したいし、息子にも『次』という字をつけているので、僕の代で潰すわけにもいかない」
覚悟の開拓だった。
再び故郷で…牧場復活へ
2018年、佐久間牧場の哲次さんは家族で故郷・葛尾村に戻ってきた。その年の9月には、ついに北海道から8頭の乳牛が牧場に運ばれてきた。牧場の復活だ。
哲次さんは、トラックから顔を出す牛たちを懐かしそうに見つめる。少し緊張した面持ちで、牛を1頭1頭牛舎へ連れていく。
「7年半でやっと今日の日を迎えた。今までうちの牧場で飼っていた牛たちの分も可愛がってあげたいと思う」
避難するときに涙ながらに抵抗した先代の父・信次さんも「やっぱり牛に触ると情が湧く。夢みたいです。牛がいなくなって7年半も過ぎたと思えない」と感無量だった。
午後になると、学校から帰ってきた息子の亮次さんも、まっすぐ牛舎にやってきた。
佐久間牧場、リスタートの瞬間だった。
生乳出荷再開 命と向き合う生業
しかし、進むはいばらの道だった。
牛乳の出荷までには、放射性物質の量を調べる厳しい検査を幾度となくクリアしなければならない。佐久間牧場の生乳は、約4カ月の検査の間、基準値を超える放射性物質は一度も検出されなかった。
そして2019年1月、ようやく生乳の出荷の日を迎えた。
【動画】佐久間牧場から生乳の出荷が再開
搾りたての生乳が、トラックに積まれていく。かつての日常が、ようやく戻ってきた。
「やっとスタートラインに立つことができた。安心したというか、一つ肩の荷がおりた。これから葛尾村を盛り上げていけるように頑張りたい」
「ばか者!何やってんだ」
再起の足取りは、少しずつ力強さを増していった。徐々に牛の数が増え、人手が足りなくなり、中学生の息子・亮次さんも牧場の仕事を積極的に手伝うようになった。
特に頑張っていたのは、子牛の世話だ。生乳が入った哺乳瓶に勢いよく吸い付く子牛に驚きながらも、優しく撫でながら飲ませていた。
ただ、うまくいくことばかりではない。
ある日の朝。生まれたばかりの子牛にミルクを飲ませる亮次さんに、年配のスタッフの怒声が飛んできた。
「お前どこにくれているんだよ!ばか者!何やってんだ!」
生まれたばかりの牛には、母親の免疫が入っている「初乳」を与えなければならないが、亮次さんは別の牛にのませるミルクを誤って飲ませてしまったのだ。
先輩の剣幕に、改めて命を扱う仕事の厳しさを痛感していた。
父の背中を追って息子が進んだ道は
2020年3月、亮次さんは中学校の卒業式を迎えた。進学先に選んだのは、酪農を学べる農業高校だった。照れ笑いをしながら、将来をこう語った。
「酪農家になるしかないですね。日本一?いや東北一?」
農業高校があるのは葛尾村の自宅から約50キロ離れた遠い場所。車でも1時間半かかるため、親元から離れての寮生活となる。実習では、多くの同級生たちと一緒に学校で飼育している乳牛の世話をした。
【動画】農業高校で実習する亮次さん
牛の管理や飼料の配合など、父・哲次さんたちが毎日やっている仕事の意味を一から学んだ。父の仕事をより身近に感じるとともに、尊敬の念が増していった。
「今、目標にしているのはお父さんです」
休日には自宅に帰り、父の仕事を手伝った。牛舎の清掃や搾乳機へ牛を追う仕事も、手際よくこなしていった。重機に乗って、牛舎内におが粉をまくこともある。成長する我が子の姿を、哲次さんは誇りに感じていた。
「あまり何も言わなくても、気が付いて仕事ができるようになったというのは、高校に行って学んでいることがすごく活きているのかなって感じています。本人には言わないですけど」
酪農家親子のこれから
現在、佐久間牧場は200頭以上を飼育する、福島県内でも有数の牧場になった。
業界を取り巻く環境はかつてないほど厳しい。コロナ禍による生乳の消費量低下や、ウクライナ危機などによる物価高で飼料・燃料費が急騰し、廃業する同業者の話も耳にする。
原発事故以前は1500人が暮らしていた葛尾村は、帰村率が低く、人口はかつての1/3ほどになってしまった。事業拡大に打って出ようとしても、人手の問題が常に頭を悩ませる。
どこかで一歩間違えれば、という不安は尽きない。
そんな時、哲次さんに浮かぶのはあの「地獄絵図」だ。あきらめるわけには、いかないのだ。
「牧場を再開したときのことを忘れず、支援してくれた人たちに恩返しができるような牧場にしていきたいなと思います」
息子の亮次さんは、この4月から福島県内にある農業短大に進学する。将来、牧場の経営を担えるようにするためだ。
息子の夢を叶えようと進み続ける父と、その背中を追い続ける息子。2人の夢は続く。
(福島中央テレビ報道部 渡辺早紀)
※この記事は、福島中央テレビによるLINE NEWS向け「東日本大震災特集」です。
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