待望の娘は、産まれてほどなくして、重度の聴覚障害ということが分かった。
「でも、補聴器をつければ聞こえるんでしょ?」
父が当初抱いた楽観。それは、大間違いだった。
補聴器があっても、言葉として聞き取るのは難しいこと。そのせいで、言語学習のハードルが高く、周囲とのコミュニケーションにも苦労すること。
「(難聴児の言語学習では)絵日記など視覚的な言語教育が有効とされる。4語くらいしゃべっただけで嬉しかった。難聴児特有の嬉しさかも」
娘はいま、8歳になった。
元気に小学校に通い、夢は物理学者になること。そして、いたずらっぽい笑みを浮かべ、こう話す。
「叱られている時は、補聴器を外したい」
きっと、親にも分からない苦労や悔しさを乗り越えてきたはずの娘の笑顔に、父は背中を押された。
6年前、難聴の子を持つ家族会『そらいろ』を立ち上げた。伝えたいのは、難聴の子を育てる喜びと確かな情報だ。
そして迎えた、マスクが当たり前のコロナ禍。一組の親子の歩みは社会を少し動かすことになる。
◆10人に1人が難聴 進まない理解
岩尾橙(ともり)さんは、福岡市に住む小学3年生。音を感じ取る内耳に問題が生じる感音性難聴。
音が歪み「か・き・く・け・こ」が「あ・い・う・え・お」に近い形で聞こえるという。
現在、地元の小学校に元気いっぱいに通う彼女だが、これまで難聴について理解されないこともあったという。
父の至和(ゆきかず)さん(49)が、苦々しく振り返る。
「ある保育園では、『難聴で聞き取りが難しいので、何度か伝えてほしい』などお願いをしても、全く相手にしてもらえなくて。話が通じないと転園も経験しました」
難聴の子どもは、周りの動きに合わせて行動していることも多い。
例えば、外に遊びに行く場合、再び戻らなくていいよう、先にトイレを済ませるよう指導されるが、周りの行動に合わせている場合、なぜトイレに行くかが理解できておらず、社会性が身につかない。
至和さん夫婦は、保育園に何度伝えても理解を得られなかった。2人はクレーマーのように扱われることに、疲れきってしまったという。
日本における難聴や補聴器利用の実情を調査した『Japan Trak2022』によると、日本の難聴者率は10.0パーセント。10人に1人が、耳の聞こえづらさを感じているという。
しかし、聴覚障害は外見から、その特性や程度が分かりにくいため、「補聴器をつけていれば聞こえる」と誤解され、苦しむ人たちは少なくない。
娘の転園に際して至和さんが思ったのも、同じことだった。
「難聴の人って昔からいるのに、どうしてこんなにも理解が進んでいないのだろう」
もう一つ、当事者の親になって感じたことがあった。
難聴について調べれば調べるほど、ネガティブな情報が多く、不安が増えていったことだ。
「コミュニケーションがうまくとれず、難聴の子どもは話せない可能性が高い」
「学校ではいじめの対象になりやすい」
幸い、自分の娘は困難を少しずつ乗り越えて、成長してくれている。
でも、かつての自分たちと同じように、間違った情報に悩んでいる家族は多いはずだ。
「理解されないことで苦しむ難聴の家族を減らしたい」
◆マスク社会で取り残される難聴の子どもたち
至和さんは2017年に、難聴の子を持つ家族会『そらいろ』を設立した。
現在、福岡県内から30を超える家族が参加し、日常の悩みを共有している。
一言に難聴といっても個性があり、聞き取りやすい音の高さや、歪みの程度は人それぞれ。
そんな難聴の人たちと“音の世界”を繋ぐ補聴器だが、補聴器は全ての音を拾ってしまうため、雑踏の中では必要な情報を捉えることが難しいという。
難聴を体験できるアプリ『hearloss』(協力:ロンドン大学)
だからこそ難聴者は、相手の口元を見て、聴覚に情報を補完しながらコミュニケーションをとっていく。
彼らにとって当然で不可欠なコミュニケーションの手段を奪ってしまったのが、コロナ禍だった。
マスク社会となり、口元が見えないので何度も聞きなおしてしまう。
友人に話しかけられても気づけず、無視したと勘違いされてしまう。
至和さんがつくった家族会には、そんな悩みが日に日に多く寄せられるようになった。
ただでさえ、密を避けるようにと言われる中、難聴者の多くが必要最低限の会話すら、ままならない状況に追い込まれたのだ。
孤独や疎外感からふさぎ込む当事者は、一人や二人ではなかった。
「社会から取り残される、難聴の人たちについて知ってほしい」
至和さんは、再び立ち上がることにした。
◆アニメで広がった"小さな声"
2020年12月、至和さんは難聴理解をテーマにしたアニメ制作をクラウドファンディングで呼びかけた。
すると2か月で200人以上の支援が集まり、予想外の反響を見せる。
福岡市の動画制作会社『KOO-KI』(東京五輪の招致PRムービーを担当)が制作の協力を申し出るなど、小さな声はどんどん大きくなっていった。
「補聴器や人工内耳をつけていても全部聞こえているわけではない」
「一度の聞き取りは難しい」
「前に回って話してほしい」
耳に補聴器をつけた難聴の男の子を主人公に、アニメには難聴の人が抱える悩みや思いが描かれている。
約5か月の制作期間を経て、福岡の優しさが詰まったアニメ『なんちょうなんなん』は完成した。
アニメ『なんちょうなんなん』
難聴について知るキッカケとなれば。
そう願う岩尾さんの元に福岡市内の小学校から、ある依頼が届いた。
「なんちょうなんなんを使って、子どもたちに出前講座をしてほしい」
◆難聴の人たちも注目 アニメでつながる輪
2021年11月、『なんちょうなんなん』を使った初めての対外活動が行われた。対象は小学6年生。
出番を控えた岩尾さんを、一人の男性が訪ねる。
耳に補聴器をつけた彼は、福岡県に住む松元卓巳さん。
『なんちょうなんなん』の取り組みを知り、講座への協力を申し出てくれた。
松元さんは、デフサッカーの日本代表。4年に1度行われる世界大会『デフリンピック』に3回出場する難聴(デフ)のアスリートだ。
競技活動の傍ら、全国各地で難聴の理解促進を目的に講演を行っており、その活動が評価され、国際的な賞であるパラアスリート賞を受賞している。
難聴の人が後ろからの音に気づきにくい理由。それは、補聴器のマイクが前向きについているから。
マスクがあると何と言っているか分からない。
あまり触れる機会のない“難聴の世界”が子どもたちに伝えられた。
福岡雙葉小学校で行われた講演の様子
「難聴の人が困っていることやどう接したらいいか、が分かりやすかった」
「障害のある人を見たら怖いと思ってしまうこともあったが、これからは積極的に話しかけてみたい」
子どもたちから届いた感想文。
その反応に、至和さんは確信した。
◆会社を辞め、活動に注力
「(難聴の人々について)知る機会を増やせば常識になっていく」
それを積み重ねていけば世界は変わる。きょう踏み出したのが、その一歩。
至和さんは勤めていた会社を退職。難聴の人たちの就職をサポートする一般社団法人『言葉のかけはし』を設立した。
至和さんたちが福岡県内の企業にアンケートを取った結果、「聴覚障害のある人を一般枠で採用してもよい」と答えた企業は約3割。
難聴への理解の低さが浮き彫りとなる結果だった。
「見えづらいから眼鏡をかける。聞こえづらいから補聴器をつける。同じはずなのに」
至和さんは福岡県内の企業や学校を訪ねて、難聴の人たちとのコミュニケーションの取り方や支援方法などを提案している。
中学1年生を対象にした授業では、無料アプリ『UDトーク』を紹介。
スマートフォンなどで誰でも簡単にダウンロードでき、音声を認識し、文字に変換するものだ。
「難聴について知ってほしい」
その思いでコツコツ積み重ねている至和さんの活動。少しずつ社会が興味を示し始め、社会的なブームとなったドラマ『silent』から依頼を受け、資料提供で携わった。
さらには2022年8月、驚くべき知らせが届く。
「最終選考にノミネートされました」
◆目指すのは全ての人が住みやすい社会
毎年、京都府で開かれている『アニものづくりAWARD』。
アニメ業界との優れたコラボ企画を表彰する式典で、来場者数は4万人を超える西日本最大級のイベント。
その式典の壇上に、至和さんの姿はあった。
アニメ『なんちょうなんなん』が、応募総数157作品の中から総合グランプリを受賞したのだ。
「難聴の人を特別扱いしてほしいわけではありません。難聴の人が住みやすい世界、それはきっと全ての人が住みやすい世界につながると思うのです」
受賞スピーチで、至和さんはこう締めくくった。
福岡で広がる難聴理解の輪。
ちょっとの優しさと、小さな気づきで、この世界は大きく変わる。
アニメ『なんちょうなんなん』に込められた思い。
まずは、知ることから始めてみませんか。
アニメ『なんちょうなんなん』
※この記事は、FBS福岡放送ニュースによるLINE NEWS向け特別企画です。
岩尾さんが代表を務める『言葉のかけはし』では、難聴に関する普及啓発のためのクラウドファンディングを実施しています。支援はこちらから↓
一般社団法人言葉のかけはし