美しい絵画や文学、音楽など、日本古来の文化に今までにない親しみを感じます。今年はこの国を見つめ直す好機なのかも。
世界に誇る伝統芸能の継承者である二人に話を聞いてみました。今、再発見すべき、日本の美しさってなんですか?
海外公演では「旅する大使館」とまで称され、日本文化の顔となってきた歌舞伎。その最前線を走り続ける高麗屋(松本白鸚・幸四郎の屋号)を支えるのは、松本白鸚夫妻の最強のパートナーシップと見てよさそうだ。
かたや歌舞伎のみならず、ミュージカルや現代劇、テレビドラマと幅広く活躍。若いころからスターであり続け、傘寿に近い現在も不変のヴァイタリティをキープする歌舞伎界の重鎮。
かたやその妻で、3人の才能溢れる子(松本紀保、松本幸四郎、松たか子)の母として、家族と家業のマネージメントを完璧にこなしてきたスーパーウーマン。
日本の芸術文化に多大な貢献をしてきた偉大な夫婦だが、その佇まいはいたってフランクで、威圧感ゼロ。
「『“ぶる”な。“らしく”しろ』と先輩に言われたことが、忘れられずにいます。名門ぶる老舗にろくな店はないでしょう。ぶるのは自分に自信がない証し。名門だの風格だのといったものに実体はありません。にじみ出たまま、それらしくいることが大事でしょうね」
自らを「アーティストではなくアルチザン(職人)」と、白鸚さんは言う。
「日本の美について、僕もいろいろ考えました。十七代目中村勘三郎のおじ(現・勘九郎さん、七之助さんの祖父)と四国の琴平にある江戸時代ながらの芝居小屋・金丸座でご一緒した時のことでした。
『沼津』というお芝居で、荷物を担ぐ平作役のおじと、後ろからついて行く十兵衛役の僕が、客席を街道に見立てて、二人で客席通路を歩いて回る場面があるんです。
ここはお客様の顔を眺めて「きれいな人がいるねえ」と話してみたり、「こんなところにお地蔵様が」と言ってお客様を拝んだりと、平作と十兵衛のやり取りで楽しんでいただく趣向なんですが、金丸座は歌舞伎座のような大劇場と違い、こぢんまりとして雰囲気のある芝居小屋なので、きっと勘三郎のおじは、いつにも増して、アドリブを利かせてくるに違いない。何を言われてもしっかり上方弁で返さなければと、準備して構えていたんです。
ところが、おじは歌舞伎座の時と一言一句変えず同じせりふで、アドリブのアの字も入れませんでした。この時に思ったんです。歌舞伎役者に限らず芸能に携わる者は、アーティストではなく、アルチザンなのではないかと。
歌舞伎座だろうと、金丸座だろうと、ブロードウェイのマーティンベック劇場だろうと、道端だろうと、そこに集まるお客様を感動させなければ、いい役者とは言えない。
道端で芸を見て『感動したよ』と十円玉をポンと放ってくださったお客様が第一。おじはそう考えていた名優でした。“手に職をつける”とよく言いますでしょう。手に“芸”をつけたのが、歌舞伎役者なんですよ」
戦後歌舞伎界の頂点を極めた至高の女方・六代目中村歌右衛門からは、「役者はだんだん下手になるんだよ。上手くなったと思うのは、馴れからくる錯覚よ」と忠告されたという。わが身をわきまえ、つねに観客を第一に置くアルチザン精神。これが歌舞伎美の本質なのかもしれない。
「江戸時代には、役者は劣悪な境遇下で這い上がり生き抜いていったんですからね。プロダクションもマネージャーもスタイリストもいない時代に、そうした役割はすべて奥さんが担うことで、役者稼業は成り立っていたんです。
わが家は、それが現在も続いているということですね。加えて子どもの学校のこともありますから、昔より大変だと思います。
僕は芝居のことしか考えないですから、それを補い、主婦の仕事をし、子どもを育て、芝居のことも分かっていなきゃいけない。
家内は九州出身で、慶應の美学に通っている時に僕と出会ったわけですが、よほどの自覚と覚悟がなければ、ここまではできなかったはず。会うとこう、にこやかな顔してあたりが優しいですけど」
「“けど”って言いました?(笑)」(紀子さん)
「ほらね、外面似菩薩(げめんじぼさつ)、内心如夜叉(ないしんにょやしゃ)。こうでなければ務まらないんです(笑)」
高麗屋は、父(白鸚)・子(幸四郎)・孫(染五郎)三代の同時襲名という、ただでさえ希有な大イベントを、2回(1981年と2018年)も行う僥倖に恵まれた家。そのぶん、何倍もの膨大な責務を担った紀子さんの苦労には、想像を絶するものがある。が、
「その時々は必死でやっていたので、大変だとは特に感じませんでしたけど、今にして思えば、よく無事にやってこられたなと思います。
ただ、義父も義母も『こうしなさい』ということは一切言わず、ポイントだけを伝えて『あとはあなたたちの思うようにやりなさい』という人だったので、一から行儀作法を習うというようなことはまったくなく、自由だったんです。
ですから義母のやることを、見て覚えていました。主人の染五郎時代には、義母が今でいうマネージャーのような仕事もしていたんですが、それも『あなたがやったら?』とポンと渡してくれたので、受け継ぐことになりました」
この日の着物も、義母の正子さんから譲り受けたもの。濃い紫地に、ちょっとモダンな花と秋草らしい手刺繡の入った、可憐で落ち着きのある御召(おめし)だ。
「この刺繡は、播磨屋の祖母(正子さんの実母で初代中村吉右衛門の妻・波野千代さん)が自分で刺したものなんですよ。とても器用な人だったんです。この色合い、素敵ですよね」
「いい着物を着てたよねぇ、お祖母さん。シックなんて言葉がありますけれど、着物は派手で、しかも品があるものなのです。そしてそういうものは古びない。それが今に通じる、日本の美というものなのでしょう。そういったよい趣味の人でした。
本を読むのも大好きでね。祖父の書き遺したものを千谷道雄(ちやみちお)さんと自ら編集して『吉右衛門日記』を出版したり、座敷で腰掛けられる脚の低い椅子が欲しいと注文して、それが今でも天童木工のベストセラーになっていたりします。翔んでる人でしたね。
歌舞伎界では初代吉右衛門の妻として重責を果たし、その一方で、モダンなセンスと行動力の人でもありました。その娘のお袋(正子さん)も、何をやらせても天才的にうまかった。
そして今、家内がここにはいないと思って言いますけど、僕がこれまで、つねに気分よく仕事をすることができて、来年には齢八十になろうというのに初役で『時平(しへい)の七笑(ななわらい)』に挑むことができるのは、ひとえに家内のおかげです」
と語る白鸚さんの隣で、静かに微笑む紀子さん。公私ともに最強のパートナーである二人のタッグはこれからも続く。
菅原道真を陥れる策謀家・藤原時平に初めて挑む。
ライフワークである『勧進帳』の弁慶(左)は今年4月で上演1160回となった。『伽羅先代萩』の仁木弾正(右)は、江戸時代の名優五代目松本幸四郎の精神を引き継ぐもの。10月は初役で『時平の七笑』に挑んだ。
「菅原道真の白梅に対して、紅梅を手に取ろうかと思っています。『この時代、俺のようなデーモンが必要なのだ』というところをお見せできれば」。「十月大歌舞伎」第二部『時平の七笑』は、10月2日(土)〜27日(水)歌舞伎座にて。
松本白鸚さん(まつもと・はくおう)
歌舞伎俳優
1942年生まれ。’46年に二代目松本金太郎を名乗り初舞台。’49年六代目市川染五郎、’81年九代目松本幸四郎、2018年二代目松本白鸚を襲名。
藤間紀子さん(ふじま・のりこ)
二代目松本白鸚 妻
1969年に当時染五郎だった白鸚と結婚。著書『高麗屋の女房』など。
撮影・青木和義 着付け監修・江木良彦 ヘア&メイク・長網美津子 文・伊達なつめ 撮影協力・星のや東京
『クロワッサン』1054号より