18歳でデビューし多方面で活躍する相武紗季さん。意外な幼少期の過ごし方から、超多忙だったデビュー後の生活、20代後半で留学を決めた理由についてお話を伺いました。(全3回中の1回)
人前に出るのは苦手だった幼少期
── 小さい頃はどんな性格のお子さんでしたか。
相武さん:私はどちらかというと内弁慶で、人前で何かをするのは苦手なタイプでした。外で走り回っている活発な子ではあったのですが、人見知りで内向的な子どもだったと思います。
── どんな遊びをしていましたか。
相武さん:関西だとケイドロと言うのですが、警察と泥棒に分かれてする鬼ごっこや、色鬼、基本的に外で走り回るものが好きでした。バスケットボールや水泳など体を動かすことが好きだった一方で、家では、姉と手芸をするのも好きでした。ミサンガも編んで作りましたね。大人になってからも羊毛フェルトにハマっていました。
── お母さんが宝塚歌劇団の出身で、お父さんがアメリカンフットボール選手というご家庭で育ちましたが、家での決まりごとのようなものはありましたか。
相武さん:うちは本当にテレビをつけない家で。観るとしたらニュースが基本で、バラエティ番組やドラマもあまり観てこなかったんです。お休みの日には、母とは宝塚の舞台を観に行き、父とはアメリカンフットボールの試合を観にいく。極端な感じがしますが、その二択が多かったと思います。
── お姉さんも宝塚歌劇団で活躍されますが、相武さんはどんな夢を持っていましたか。
相武さん:動物のお医者さんとか、水泳をしていたので何かそれに繋がるもので、イルカの調教師になってみたいとは言っていたようなのですが、スカウトされるまであまり夢らしい夢はなかったんです。姉は幼少期からずっと「宝塚の舞台に立ちたい」という夢を持っていたので、それを聞いて焦っていたのは覚えています。
デビュー後は「寝る間も惜しんで働いて」
── スカウトをきっかけにデビューされましたが、芸能界に入ることに対してご家族はどのような反応でしたか。
相武さん:家でテレビを観ていなかったので、どんな世界なのかあまりよくわかっていなかったんです。「女優さんになるんだ!」というような意気込みもなく、漠然と「これからはテレビに出る機会があるのかな」という感じでした。両親も「まだ高校生で、ダメだったら大学に行けばいいし、1〜2年東京で試してみたら」というような軽い気持ちで送り出してくれたと思います。
── ドラマ「WATER BOYS」でデビューを飾り、その後は数々の作品に引っ張りだこ。お忙しい日々だったと思います。
相武さん:本当に、寝る間も惜しんでという言葉がピッタリだったと思います。若手だったので、自分の出番があるなしに関わらず基本的にずっと現場にいました。時代が時代だったので、深夜の2〜3時に撮影が終わって、次の現場が7時入りというときもありました。家に帰ってシャワーを浴びて、2時間半後にまたお迎えが来て。移動中は台本を頭に詰め込んで、とにかく誰かの足を引っ張らないようにすることだけを意識して数年が過ぎていきました。
── 演技の仕事の経験があるお母さんやお姉さんからはどんな声掛けをされましたか。
相武さん:私がテレビに出るようになってから実家もテレビを観る習慣ができたようなのですが、とにかく「テレビってすごいね!きっと舞台とは全然違うんだろうね」という感じで、私の仕事を尊重してくれていました。姉は同時期に宝塚の舞台に立っていたのですが、よくお互いのことを褒めて励まし合っていました。
「頑張ったね。あのときすごくよかったよ!」「舞台、観たよ!」という感じで。下積みのときはやっぱり叱られることのほうが多くて、あまり褒めてはもらえないので、どうしても自分を追い込んでしまうことが多かったんです。そこを姉妹でお互いに補って、支え合っていたと思います。
── 美しい姉妹愛ですね!
相武さん:昔から仲はいいのですが、姉は今でも褒めてくれます。すごく救われる存在です。
人気絶頂期に渡米を決断し
── 20代後半で突然アメリカに5か月間、留学されました。スケジュールの調整は大変ではありませんでしたか。
相武さん:正直、周りは「なんで今!?」という感じで、すごく嫌がっていました(笑)。でも私の中では絶対に20代のうちに海外留学をしてみたいという気持ちがあって。本当は大学などで行けたらよかったのですが、10代から仕事を始めてそれは叶わなかったので。
留学する前も、忙しいスケジュールの合間を縫って1週間お休みをいただけたら、母と海外旅行には行っていたんです。旅行もいいけれど、やっぱり自分で海外生活を送ってみたいという気持ちが強くなりました。
日本にいると、いつもマネージャーさんやスタッフさんに支えてもらっていて、すべてに誰かのサポートがあったので「私って本当にひとりで生活できるのかな」という不安もありました。同世代の友人は就職していたので、私からすると自立しているように見えました。大人の階段を登っていく友人たちを見ていたら、私も何かをしてみたい!という思いが大きくなって、1年ほど前からお休みをくださいと話をして、スケジュールを調整していただきました。
── 現地での生活はいかがでしたか。
相武さん:最初はホームステイで2〜3週間くらい過ごし、そのあとは自分で寮を探しました。サンフランシスコやニューヨーク、ボストンやカナダにも行きました。いろんな場所を訪れて現地で友人を作って。仲良くなった子と一緒にナパバレーのワイナリーに行ったり、ナイアガラの滝を見に行ったり。
日本人以外にも、アメリカやスペイン、コロンビア出身の子とも仲良くなり、今でも連絡を取り合う仲です。本当に自由に過ごしていたのですが、今思えば、行き当たりばったりでよくあんなに動いたなと思います。
── 危険な目に遭うことはありませんでしたか。
相武さん:サンフランシスコでは銃撃戦がありましたし、窃盗団などもいて、街角で銃声が聞こえることもよくありました。銃声が聞こえたらビルに逃げ込むなんてことも日常茶飯事で。ボストンでは、アジア人へのヘイトクライムで差別的な言葉をかけられることもありました。
でも「怖いな、嫌だな」というより、衝撃のほうが大きかったです。「こういう世界もあるんだ」という感じでした。日本に住んでいると、なかなか思ってもみないことは起きません。別の次元から世界を見ている感じがして、世界にはこういうことが普通に起きているというのを肌で感じましたし、危機管理能力も養われたと思います。
もっと早くに海外に行きたかったとずっと思っていたのですが、大人になって、ある程度いろいろな常識や能力を身につけられてから行けて良かったです。
LGBT(当時)のパレードを見たのも初めてでしたし、新しく知ることも多くあって。日本はやっぱりいろんな面で恵まれています。住んでいるとなかなか気づかないのですが、一度離れてみて「こんなに素敵な国で育ったんだ」ということも知りました。それに、日常から離れて自由に暮らしてみると、自然と自分のしたいことも見えてきて、より生きやすくなったので貴重な経験ができたなと思います。
PROFILE 相武紗季さん
スカウトをきっかけに芸能界入りし、2003年フジテレビ「WATER BOYS」で俳優デビュー。その後、ドラマや映画、CMなどで活躍。主な出演作に「ブザー・ビート〜崖っぷちのヒーロー〜」、「リッチマン、プアウーマン」、「リバーサルオーケストラ」、「ラストマン -全盲の捜査官-」など。
取材・文/内橋明日香 写真提供/相武紗季