18世紀のロシア女帝エカチェリーナ2世は、性的な刺激を得るため、「足の裏をくすぐる係」を雇っていた。
18世紀のロシア女帝エカチェリーナ2世や、ロシア大公女アンナ・レオポルドブナ(皇帝イヴァン6世の母后で摂政)といった高位の女性たちは、性的な刺激を得るため、フルタイムの足裏くすぐり係として女性または去勢された男性を雇っていた。
くすぐり係はひわいな物語を朗読し、夫(あるいは愛人)と盛り上がるための手助けも行っていた。高報酬の仕事だったようで、うらやましい。
800年前のコックリングは、ヤギのまつ毛でつくられていた。
コックリングは、宋時代(西暦1200年ごろ)の中国で広く使用されており、当時はヤギのまつ毛でつくられていた。通常の用途は、性行為の刺激を増幅させることだった。
現在もネットで「ヤギのまつ毛のコックリング」を入手できる。
約2万8000年前のディルドは石でできていた。
写真は古代につくられた石のペニスで、男性器を模した性具としては世界最古の部類に入る。ドイツのホーレ・フェルス洞窟で発掘されたもので、約2万8000年前のものと推定されている。
その後、柔らかさ(と暖かさ)を追求するため、レザーのさやで覆われたものが発明されたが、まだ「ディルド」という言葉は使われていなかった。
ディルドと呼ばれるようになったのは、王政復古期の英国。ある詩が、イタリア製ディルドの人気について語っている。
公爵夫人の手にキスをした
英国の淑女たちよ
最近、シニョール・ディルドと呼ばれる高貴なイタリア人と
出会ったことはありましたか?
本格的な「ペッティングパーティー」は1920年代に始まった。
1920年代、大胆な若い女性たちは、両親から教育されたビクトリア朝時代のお堅い礼儀作法を拒絶し、「ペッティングパーティー」という特別な集まりに参加した。
目的はただ1つ。お気に入りの男性を見付け、キスしたり、体を寄せ合ったり、触れたりすることだ。ガードルの下に手が入ることもあった。ただし、セックスをすることはなかった。時代はまだそれほど進んでいなかったのだ。
ハードコアポルノも1920年代に誕生した。
100年前の人々は道徳的だったと広く誤解されているが、カメラが発明されて間もなく、人々はこのようなヌード写真を撮り、ポストカードとして販売し始めた(もちろん、こっそりと)。
性行為そのものを撮影した写真や、レズビアンのような行為の写真も多かった。もちろん、母親に見られてはまずい写真ばかりだ。
ビクトリア朝時代の医師は、患者のマスターベーションを手伝っていた。
ビクトリア朝時代、女性の「ヒステリー」は深刻な問題とみなされていた(抑圧的な家父長制の社会で権利を認められていなかった女性たちが、不安、短気、神経質などの症状を抱えていたと見られる)。
しかし医師たちは、症状を一時的に和らげる方法を発見した。「指を使った骨盤マッサージ」を正しく行えば、「ヒステリー発作」を誘発できるという。確かに、その通りだ。
英国王エドワード7世は、フランスの売春宿に通っていた。
ビクトリア女王の長男として1841年に生まれたアルバート・エドワード、愛称「バーティ」は、英国王になる前の1880年代、パリの高級売春宿「ル・シャバネ」の常連だった。
あまりに頻繁に訪れるため、特製のラブシート(写真)が用意されていた。フランスの高級売春婦とセックスする際、このラブシートがバーティの大きな体を支えていたのだ。
18世紀のロンドンでは、セックスガイドブックが売られていた。
英国の首都ロンドンでは当時、売春は合法だった。そして、男性たちが自分にぴったりの売春婦を見付けられるよう、毎年ガイドブックが発行されていた。
金額、年齢、容姿、テクニック、評価に加え、それぞれが得意とする行為が(細部まで生々しく)紹介されていた。ひわいな「TripAdvisor」と言えばわかりやすいかもしれない。
スキャンダラスなセックス・クラブも流行していた。
18世紀には、セックス・クラブも流行していた。その代表がスコットランド中部のセント・アンドルーズにあった「ベガーズ・ベニゾン(Beggar's Benison:「物乞いの祝福」の意味)」だ。
メンバーたちは、「ファニー・ヒル」(1748年に獄中で執筆され刊行されたが、発禁処分になった性愛小説、別名「ある遊女の回想記」)のような禁書を読み、積極的な女性たちとセックスしていた。
入会の儀式は、自慰を行って、共用のボウルに精液を出し、ペニスの形をしたグラスでそれを飲むというものだった。なかなかだ。
西暦300年まで、ローマには45の売春宿があった。あまりに人気なため、夕方になるまで営業できなかった。
もし午前中に営業していたら、皆が仕事にも行かず、売春宿に入り浸っていただろう。当時のローマでは、売春は完全に合法で、男性もサービスを提供していた。
ある時点の統計調査によると、ローマには3万2000人のセックス労働者がいたという。最寄りの売春宿の方向を示す「道路標識」もあり、男性器の形をしていた。
ローマでは、専用の「売春宿トークン」が支払いに使用されていた。
広大なローマ帝国のあちこちに散らばっている兵士が言葉の壁に阻まれないように、ローマ軍は専用のトークンを考案した。
さまざまな行為や体位の絵柄が刻まれたコイン(スピントリア)で、兵士たちは自分の好みを指差し、代金を支払うだけでよかった。実に賢い発明だ。
古代ローマの女性たちは、剣闘士の皮膚からこすり落とした汗を媚薬として使用していた。
古代ローマの人々はせっけんを使用せず、体に油を塗り付け、金属製の「肌かき器」で、汗や汚れをこすり落としていた。
貴族の女性たちはそれぞれ、特定の剣闘士に熱を上げていたため(現代の有名人と同じようなものだ)、好みの剣闘士の体に塗られていた油を買い求め、保湿剤や潤滑油として使用していた。
中世のフランスでは、セックスの詩が流行していた。
「Pornhub」がまだなかった時代、人々は旅芸人たちから興奮を味わっていた。彼らが演じる喜劇や、セクシーで下品な物語、あるいは、ファブリオーと呼ばれる詩が楽しまれていたのだ。
ファブリオーには、「セックスの話を聞けなかった処女」、「女性器と肛門に話をさせた騎士」、「絶頂に達した神父」、「長い肛門を持つベランジェ」といった下品なタイトルが付いていた。
中世の女性たちは、「処女テスト」で不正を働いていた。
「純潔・貞淑」な中世の女性は、結婚初夜に処女であることを期待されていた。しかし女性たちは、処女と偽る方法が記された秘密の手引書を入手できた。
ある手引書には次のように書いてある。
「結婚の前夜、陰唇に注意深くヒルを乗せる。そうすれば、陰唇から血が流れ出し、傷跡に小さなかさぶたができる。この状態で初夜を迎えれば、(出血によって)男性をだますことができるだろう」
中世のフランスでは、勃起不全(ED)のテストが行われていた。
16世紀のフランスでは、女性から離婚することはほとんど不可能だったが、1つだけ方法があった。夫がEDであることを証明できれば、婚姻関係を解消できたのだ。
テストは裁判所で行われた。夫は陪審員の前で射精しなければならず(容易なことではないだろう)、場合によっては、妻とセックスするよう求められた。
この記事は英語から翻訳されました。翻訳:米井香織/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan