沖縄・国頭村で沖縄戦を体験した 山本園子さん(87歳)
10歳の時に、沖縄本島北部の国頭村で沖縄戦を体験した山本(旧姓・比嘉)園子さん(87歳)。戦後は料理人になり、今は大阪で沖縄料理をつくっています。「戦争は悪。でも、一人ひとりの人間は悪ではないはず」といいます。(中塚慧)
家族で森の奥へ奥へとにげたが、つかまる
「こわい」米兵の攻撃 近くに大砲の音聞く
大阪市の沖縄料理店「てぃーあんだ扇町本店」でお客さんから「おばあ」と親しまれる山本さん。得意料理のゴーヤーチャンプルーや、ソーキ(豚のあばら肉)の煮付けなどを出します。おばあには、お客さんにはあまり話さない、子どものころの忘れられない体験があります。
1945年4月1日、アメリカ(米国)軍は沖縄本島中部の読谷村に上陸しました。米軍は同じ月の中旬、山本さんが住む北部にも攻め入りました。当時、山本さんは、お父さんとお母さんと弟と国頭村で暮らしていました。近くにはおばあさんとおじいさんもいました。
山本さんたちは、おじいさんがチャーギという木で森の中につくった小屋にのがれました。米軍がさらにせまってきて、おばあさんは「ヒージャー(沖縄の言葉でヤギ)が来るから、奥へにげなさい」といいました。米兵の青い目はヤギの目に似ているので、ヒージャーと呼ばれていたそうです。山本さんはにげる前に米兵を見かけました。「暑いからみな上半身裸で銃をかついでいた。背が高くて、こわいなという印象でした」
にげる途中、頭の上にかついだ荷物が岩に引っかかり、着物が川に流されました。「拾うどころではない。自分の命が大切だと、奥へ奥へとにげました」
森でかくれていた時、米軍の艦砲射撃(軍艦から陸上に向けて大砲で攻撃すること)の音を聞きました。「2発ほど、ボーンと。こんな近くにせまってきて、日本は負けるんだ、とぼんやり思いました」
収容所で「命拾い」 米兵はやさしかった
日本軍の組織的な戦いは6月下旬に終わりました。山本さんたち家族は米軍につかまり、村内にあったと記憶している捕虜収容所に連れて行かれました。
「そこで金網に囲われました。収容所で出された缶詰のポーク(ひき肉の加工食品)の味は忘れられません。こんなにおいしいものがあれば、沖縄も幸せだったのに。アメリカさんのおかげで、命拾いしました」。ポークは商品名の「スパム」でも知られ、戦後の沖縄の家庭料理に欠かせない食材になりました。
「米兵からはやさしくしてもらいました」とふり返ります。英語の歌を教わったり、チューインガムを分けてもらったりしました。「悪いのは戦争であって、一人ひとりの人間ではない。『罪をにくんで、人をにくまず』と、子ども心に思いました」
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戦後は結婚を機に山口県にわたり、料理人になった山本さん。今は大阪市で沖縄料理をつくっています。
最近の楽しみは、NHKの連続テレビ小説「ちむどんどん」を見ること。同じ沖縄本島北部のやんばる出身で、名字が(旧姓で)同じ「比嘉」の料理人をめざすヒロインを、ほほえましく見ています。「平和っていいですね。戦争だけは始めてはいけないと、強く思います」
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