昭和19年7月、広島県呉市のある晴れた日。
海岸線を一望できるのどかな段々畑で、女性が風景を描いている。
すると、後ろから突然その絵を奪い取る手が伸びてくる。振り向くと怖い顔の憲兵がにらみを利かせていた。
「軍事施設を描いていたのか?さてはスパイか?」
戦時中の憲兵による、恐ろしい市民弾圧かと緊張感漂う場面だ。
ところが、そのシーンの直後、家族は「このぼーっとした人にスパイなんてできるわけない」と笑いだしてしまう。その笑いが観ているこちらを日常感覚に引き戻してくれる。
これは片渕須直監督のアニメーション映画『この世界の片隅に』のワンシーンだ。戦争映画で恐怖の象徴のように描かれることの多い憲兵を用いて笑える場面を作った、異色のシーンと言えるだろう。
「戦争を体験された方は、体験のハードな瞬間を語りますが、その前後の時間の方が圧倒的に長かったはずなんです」
片渕監督はこのように語る。
『この世界の片隅に』は、戦時中を含む昭和初期の広島が舞台。絵を描くのが好きな主婦・すずさんの視点から、当時の人々の普通の暮らしぶりが戦争によって壊されていく様子を描いた作品だ。
2016年に公開された後、世代を超えて多くの観客の支持を集め大ヒットを記録。その丹念な日常描写のリアリティに「これまでにないタイプの戦争映画」と呼ぶ声も聞かれた。
2021年8月15日は、終戦から76年。戦争を直接体験した世代が年々減少していき、社会の構成員の大半がすでに戦争や、その時代の社会を知らない。これからの時代は、戦争を体験していない世代が、さらにその下の世代に向けて語り継がねばならない。
片渕監督は、戦争を直接知らないからこそ、伝え続ける意義があるという。
戦争のイメージが実態と異なるものになっている
戦争を体験していない私たちは、メディアや物語を通して戦争を学ぶ。しかし、片渕監督は一般に流布する戦争描写に「ステレオタイプで記号的」な表現が多いと指摘する。
例えば、戦時中、女性は誰もがずっとモンペをはいていたというイメージを持つ人が多いかもしれない。
その点について片渕監督はこう語る。
「当時の女性たちはモンペを格好悪いと思っていて、実際にははいていない時期の方が長かったんです。男性には国民服令という法律で国民服を着ることが義務付けられていたんですが、モンペにはそういう規定はなかったんです」
多くの女性がモンペをはくようになったのは、昭和18年の晩秋から。きっかけは薪や炭の配給が滞り、寒さをしのぐためだそうだ。
こうしたステレオタイプな戦時中の描写は、モンペ以外にもあると片渕監督は語る。窓ガラスに紙テープなどをバッテンに貼っている場面も戦争映画ではよく見かける。
「当時、紙は貴重品ですし、糊もどうやって調達したのか気になりますよね。ごはんを潰して糊を作れたかもしれませんが、ごはんなんて一番の貴重品です。実際には、ガラスに紙テープを貼っていたのは限られた施設が中心だったんです」
当時、内務省が作成した防空の手引書にも、日本では爆風が飛び散りやすい爆弾よりも、建物を焼く焼夷弾が落とされる可能性が高いため、テープを貼る必要はないと書かれているそうだ。
片渕監督は、こうした表現は特定の誰かの作為ではなく、いつしか定番の表現として定着し、作り手が世代交代していくうちに「事実」のように扱われ出したのではないかと分析する。その結果「戦争がある記号の範囲の中で語られるもの」つまり、実態と離れた可能性があるものになってしまっているのではと危惧する。
それゆえ、どんな名作であっても、ひとつひとつの表現をいったん疑い、検証しなおす姿勢が大切だと語る。
例えば、高畑勲監督の『火垂るの墓』は、ゴールデンタイムの地上波テレビで2、3年に一度のペースで放送されるほどに人気が高い。戦争を知らない世代にその悲惨さを伝えるために多大な貢献をした作品と言える。
「あの映画では、(主人公の清太が妹の節子に食べさせようとする)スイカが強く印象に残りますよね。でもスイカは原作小説には出てこないんです。当時は作付禁止だったんです」
スイカは当時、闇市で高額で売られていたものだという。そう思うと、あの時代に手に入れるのが並大抵のことではなかったことがわかって来る。
片渕監督は、映画と原作小説の表現の間には、高畑監督と原作者・野坂昭如の年齢差による視点の違いも関係しているのではと推測している。
「高畑さんも多くのことを調べて作品に反映させているはずですが、『火垂るの墓』の原作者、野坂昭如さんは終戦当時15歳で、高畑監督は10歳。当時の年齢で5歳違うと社会の見え方もだいぶ違ったのではと思います。なので、高畑さんの『火垂るの墓』を観たあとには、野坂さんの原作にまでさかのぼって、映画にはなかった何が書かれているのかを読み取るのも大事だと思います」
戦争を伝えるために日常を大切にする理由
片渕監督は、『この世界の片隅に』の制作時、戦後に一般化された「記号的表現」は用いず、当時の公文書、写真、日記、新聞や雑誌などで徹底して調べ直した。そこから見えてきたものは、モンペを格好悪いと女性たちが感じていたことなど、現代の我々とそれほど違わない、当時の人々の実像だった。
戦時中という時代がどんなものだったのか、できるだけその本当の姿に近づくため、片渕監督は映画やドラマなどでもっぱら取り上げられる特定の日付の劇的な瞬間よりも、それ以外の日々のなかにあった日常を描くことを重視した。
「戦争といえば空襲や原爆など、大きな悲劇が起きた瞬間を中心に考えてしまいがちです。でも、それ以外の日はどうしていたかというと、ご飯炊いて、洗濯して、働いてと、ずっと日常生活を営んでいたわけです。戦争を体験された方は、体験のハードな瞬間を語り、それ以外の普通の日々のことは『語るほどの価値のないもの』と思われるのでしょうが、その前後の時間の圧倒的に長かった日々のことを知らなければ、戦争が何を損ねたのかが曖昧になってしまうんです」
太平洋戦争は、1941年12月8日の真珠湾攻撃から始まったとされるが、『この世界の片隅に』では開戦の瞬間は劇的に描かれない。なんとなくすずさんたちが日常生活を送っていると、いつの間にか戦争が始まっている。
すずさんは、日々、井戸から水を汲み、畑を耕し、配給のお米を大事にしながら食事を用意する。そして、そんな日常が続いていくうちにいつの間にか生活が苦しくなり、空襲に襲われる頻度も上がっていく。
そうした生活のディテールを積み重ねた結果、当時を知る人々からはあの時代の空気感や生活が再現されていたと評価されることが多くなった。
しかし片渕監督は、当事者からも太鼓判を押された本作すら、「広大な世界の前に開いた小さなひとつの窓にすぎない」と語る。
「『この世界の片隅に』は文字通り『片隅』を描いた作品です。その外にはさらに広い世界が拡がっているんです。この作品はあえてひとりの人物の体験に限定して、その目から見えるものだけを描いたものです。戦争の全てを100%表現できるわけではないということこそ、伝わってほしいと思っています。なので、そこから先はみなさんで視野を広げていくことが必要です」
『はだしのゲン』から受ける印象が変わった
様々な思い込みやステレオタイプな表現を喝破し、事実を丹念に調べ上げて作品に反映させた片渕監督もまた戦後生まれだ。巷に流布する戦争のイメージは実像から離れており、思い込みがあるかもしれないとどのように気が付いたのだろうか。
「戦時中に書かれたものに触れて気づきました。当時の公文書などがたくさん残されていますが、そういうものを読むと、当時生きていらっしゃった方々の体験談などと、必ずしも一致しないんです。あるひとつの視点からだけでは把握できないものがあるのだとわかるようになりました」
片渕監督の幼少期、戦記物の漫画が多く描かれていたという。学生時代には「少年ジャンプ」で『はだしのゲン』が登場し連載当時に読んでいたそうだ。
学校の図書館にも置かれるこの戦争漫画は、日本人の戦争被害のイメージを形成することに貢献してきた。片渕監督は、子どものころ読んだ印象と、様々なことを丹念に調べて思い込みを排した今では異なる印象を持つという。
「『はだしのゲン』は、ガラスが顔に突き刺さったままの人や、手の皮がめくれてだらりと垂れ下がったまま手を前に突き出して歩いている人など、ショッキングな描写があります。読んだ連載当時は、人が異形な存在に変えられてしまう怖さとして認識してしまいました」
当時はなぜ人はそのようになってしまうのかがわからず、漠然とした、悪魔的な魔法のような得体の知れない力を恐れるような気持ちだったという。だが、後年様々なことを調べることで、その印象は変わったそうだ。
「原爆は炸裂する瞬間に、ごく短い時間に強烈な熱線を発します。それが一瞬で皮膚に到達すると、皮下脂肪まで達して溶けてしまうので、皮膚がだらっと剝がれてしまう。でもそこで熱線の浸透が終わると筋肉は動かせるので前に突き出せるわけです。そういうことなのだな、と自分で理解できるようになると、あれは人間が異形な者に変えられたのではなく、とてもひどい火傷を負った姿なのだ、と理解できるようになりました。それからは、自分の身の上に置き換えて考えやすくなりました」
正しい認識を欠いた恐怖は、時に差別につながることもあると片渕監督は警告する。
「例えば当時、放射能は『伝染るんじゃないか』と言われて被爆者が差別されることがありました。絶対にそんなことはありえないことです。そういう流言は、2011年の福島の原発事故の時もありましたし、今コロナについても同じようなことが起きています」
漠然とした恐怖に流されず、正確な知識で怖がることは、現代の我々も徹底できていない。戦争から学べることは、戦争そのものだけでない。より普遍的で大切なことを知る機会にもなる。
戦争を伝えるためにアニメができることと「その先」
アニメで戦争を伝えることに、片渕監督はどんな意義を見出しているのだろうか。
「アニメーションでできることは、ある種の典型例、狭い範囲のものを描くことで、そこから現実の戦争について考えてもらうきっかけを作ることかなと思います。片隅の外側にはさらに広い世界があるのであって、そこから先はひとりひとりがどのようにアプローチしてゆくか。すずさんはなぜあんな目にあったのだろうと考えてもらうわけです。すずさんが知り得ないからと言う理由で物語の中で描かれていなかった、その遠い原因はどこにあったのだろう」
片渕監督は、その実践のひとつとして、NHKと共同で「あちこちのすずさん(https://www.nhk.or.jp/special/suzusan/)」という企画を数年に渡り続けている。これは番組とウェブサイトを横断した企画で、この映画が描いたような当時の生活のエピソードを集めている。
語り継ぐために、受け手に必要なこと
戦争を語り継ぐ役目を負うのは、映画やアニメ、メディアの作り手だけではない。受け手にも大きな責任と課題があると感じてほしいと片渕監督は考える。
「僕たちは、戦争当事者ではないからこそ、より客観視できるようになるべきだと思います。なぜ、戦争中の生活がああいう状況だったのか、そもそもなぜ戦争が起きたのかなどを客観的に経緯も含めて理解することが大切です」
片渕監督は、反戦を訴えるためにこそ、より事実を大事にしてほしいとも語る。根拠が曖昧なままでは、いずれ戦争を否定しきれなくなってしまうからだと危惧しているそうだ。
「特攻隊が組織された理由、なぜ本土決戦をやって一億玉砕を行うなどと言い出したのか、などもそうです。きちんと当時のものから根拠を示して、そこから出発してなぜ戦争が駄目なのかを語ることが大切だと思います」
『この世界の片隅に』の全世代的なヒットを受け、2019年には大幅にシーンを追加した『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』を発表。一度描いたシーンも新たにわかった事実を反映させて、全く別の映画として完成させた。一度作品を作り終えても、片渕監督の語り継ぐという意思は続いている。
そんな片渕監督の言葉と、フィクションである『この世界の片隅に』は76年前の戦争を通じ「事実と向き合うことの大切さ」を伝え続けている。
片渕須直(かたぶち・すなお)監督
アニメーション映画監督。1960年生まれ。日大芸術学部映画学科在学中から宮崎駿監督作品『名探偵ホームズ』に脚本家として参加。1996年、「世界名作劇場枠」の『名犬ラッシー』で監督デビュー。代表作に『アリーテ姫』、『マイマイ新子と千年の魔法』。2016年、広島・呉を舞台にした長編映画『この世界の片隅に』が公開されると、幅広い世代からの支持が大きな反響を呼び、日本アカデミー賞《最優秀アニメーション作品賞》、アヌシー国際アニメーション映画祭 長編部門《審査員賞》を受賞し、国内外にて高い評価を得た。2019年12月には新しいシーンを追加した『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』を公開。
[取材・文=杉本穂高、撮影=YOU ISHII]
この記事は、アニメ!アニメ!によるLINE NEWS向け特別企画です。