モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、1999年のル・マン24時間レースを戦った『メルセデス・ベンツCLR』です。
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1999年、ル・マン24時間レースをはじめとするスポーツカーレースは、大きな転換点を迎えていた。遡ること4年前の1995年頃よりル・マンは、BPR GTグローバルシリーズを範として、市販GTカーをベースとするGT1カテゴリーがレースの主役になった。
しかし、ポルシェ911 GT1、メルセデス・ベンツCLK-GTR/LM、さらに日本のニッサンR390GT1、トヨタGT-One(TS020)など、スポーツプロトタイプカーの如し、名ばかりのGTカーたちが多数登場した。これによって過激化の一途を辿ったGT1は、1999年にそのGT1というクラス名がル・マンから消滅。
前年までGT1と名乗っていたクラスが、LM-GTPと名称を変え、GT1マシンたちはこのLM-GTPクラスに編入され、1999年のル・マンを戦うことが決まった。
この年、このLM-GTPクラスで戦ったのは1998年にGT1へとデビューしたトヨタTS020、1999年から新規参入したアウディR8C。そして、この2車に加えてエントリーしていたのが、メルセデス・ベンツCLRだった。
メルセデス・ベンツCLRは、それまでのGT1クラスにあった“ロードカー”を製作する必要がGTPクラスではなくなり、1999年はGT1車両の選手権も開催されなかったことから、ル・マン専用のプロトタイプカーとして開発された。メカニズム的にはCLK-LM譲りの5.7リッターV8 NAエンジンを搭載するなど、CLK-LMを踏襲した車両だった。
一方で、シャシーの上半分は一新された。車重は前年の車両に比べて約50kgほど軽量化された900kgを実現。全高も低く、ライバルよりも大幅に長いノーズの相乗効果で、異様に低い特徴的なフォルムのCLRが誕生した。
しかし、この特徴的なフォルム、特に長いノーズが、マシンが宙を舞う衝撃的な事故を複数回引き起こした要因のひとつなってしまう。
迎えた1999年のル・マン。まず1度目の事故は、木曜日の夜の公式予選で起こった。このセッションで、マーク・ウェーバーのドライブするCLRが宙を舞ったのだ。この事故ではマシンがタイヤから着地したため、その後、車両は修復されたのだが、続いて2度目の事故も起こってしまう。
それは土曜日の朝、決勝前のウォームアップセッションでのことだった。この時もマーク・ウェーバーがドライブ中にユノディエールでマシンが舞い上がり、今度はルーフから落下した。いずれの事故も他車のスリップストリームに入ったときに発生した事例だった。
CLRの空気抵抗を減らし、最高速の向上にはひと役買っていた長いノーズや、バンプの多い公道区間もあるサルトサーキットでは、硬すぎるサスペンションのセッティング、加えて前車のスリップストリームに入りさらにダウンフォースが減ったことなど、ノーズが浮き上がってしまうさまざまな要因が重なり、起きたクラッシュであった。
メルセデスはこの事故の対策として、決勝レースに向けてCLRにカナードを装着。これでフロントのダウンフォースを増し、フロントのピッチングを抑えて、ノーズがリフトしてしまうのを抑制しようとした。メルセデス陣営は「改善できた」と語っていたが、これはそれほど意味を成していなかった。
2度のクラッシュにより1台を失った状態で挑んだ決勝レースでは、マシンの改良に加えて「前車のスリップストリームに入らないように」という指令がドライバーに出されていたが、あれだけのハイスピードコースでそれは難しい要求でもあった。
その結果、多くの方がテレビ中継でご覧になっただろうクラッシュが決勝レースでも発生してしまう。ピーター・ダンブレックのドライブしていたCLRが宙を舞い、コース外へと飛び出して着地。いずれの事故でも幸いにして、重傷を負った者、死者は出なかったが、決勝中ながらコース上に残っていた1台もピットへ呼び戻し、メルセデスはル・マンからの撤退を決めた。
そしてこの1999年から今日に至るまで、メルセデスはル・マン24時間レースの舞台から姿を消している。またこのCLRの事故が契機になり、FIAによる原因究明、研究が即座に進み、再発防止策が策定された。このことが今日の安全性向上に寄与していたことも忘れてはならないだろう。
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