ヤフーとLINEが2023年3月に実施した「3.11 検索は、チカラになる。」では、合計9428万4160円を9つの団体へ寄付した。(2024年の「3.11 検索は、チカラになる。」について)
今回、寄付先団体のひとつである「公益社団法人3.11メモリアルネットワーク」を訪ね、寄付の使い道や、どのような活動を支えているのかを取材した。
2011年3月11日、大津波によって児童70人と教職員10人が亡くなり、4人が行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校。
ここで起きたことを語り続けている児童の保護者と、その活動を支えてきた団体は、語り継ぐことの重要性を訴える。
多くの人に、あの日のことを自分事として考えてもらえるよう伝え続ける2人に話を聞いた。
「いつもと同じ朝でした」
1月末の朝にグラウンドを歩くと、踏まれた霜柱がシャクシャクと音を立てた。13年前の冬も、子どもたちもきっとこんなふうに音を鳴らして遊んでいただろう。
「よーく目を凝らすと、子どもたちが見えてきます。声も聞こえてきますよね。そこにあの日、津波が来ました」
校舎に挟まれた中庭でそう語るのは、当時大川小学校6年生の次女みずほさんを亡くした佐藤敏郎さんだ。そばにあるパネルには、こんな文章が刻まれている。
2011年3月11日
いつもと同じ朝でした
「行ってきます」の後ろ姿を見送ったあの日
「寒かったでしょう」とあたたかい手で抱きしめてあげたい
娘に会えたのは3日後のことだった
佐藤さんがその手でみずほさんに触れることができたのは地震発生から3日後だった。
教員として勤めていた、大川小学校から20キロ以上離れた女川町の中学校で被災した佐藤さんは、同町でそのまま避難生活を送っていた。
そんな佐藤さんのところに、妻と長男が何時間も歩いてやってきたのは3月13日のことだった。
「うちの奥さんは、私の顔を見るなり、『みずほの遺体が上がったの』と言いました。『遺体』? 『上がる』? 何を言われたのか、全然分からない。涙も出ませんでした。
でも、奥さんは逆でした。私にその言葉を告げたその瞬間、ワーッと泣き崩れました」
佐藤さんは、14日朝早く、車で大川小学校に向かった。しかし、道路は途中で切れ、海のようだった。
知らない男性が小さな船を出してくれて、ようやく地元の人たちが「三角地帯」と呼ぶ新北上大橋のたもとにたどり着いた。そこは、子どもたちを襲った津波があふれ出した場所でもあった。
「三角地帯には、泥だらけのランドセルが山積みになっていました。ランドセルの前には、泥だらけの子どもたちがブルーシートをかぶせられてズラーッと並んでいました」
「それは忘れられない光景です。忘れてはいけないのだと思います」。
佐藤さんがやさしくも厳しい口調で語る。
「みずほは、その中に並べられていました。ヘルメットにはヒビが入っていました。流れてきたものに頭を強く打って即死でした。
水を飲んでいないので、家で眠っているのと同じ顔をしているわけです。
触れば『お父さん、くすぐったいよ』って今にも言ってくれそうで……。だから何回も、何十回も呼びました。
呼んでも、呼んでも、ぴくりともしない。うんともすんとも言ってくれませんでした」
あの日、何があったのか
校舎の中の時計を含め、町の時計はどれも3時37分前後で止まっていた。これは、地震発生の2時46分から津波到達まで51分間の時間があったことを意味する。
「なんとかならなかったのか」。
大川小学校で起きたことを知った誰もが抱く気持ちだろう。
「防災無線やラジオが大騒ぎをして、避難を呼びかけていました。それを聞いて迎えに来た保護者がいました。保護者たちは『先生、津波が来るってラジオで言ってるよ、山に逃げてね』って指をさして訴えていた。だから、みんな山に逃げていると思ったんですね。
このとおり、学校は山に囲まれています。この一段目にでも登っていれば、絶対助かっている場所です」
佐藤さんが学校の裏山に向かって歩き出すと、緩やかな斜面を登った先に白い目印がある。津波の到達点だ。
グラウンドから走れば、子どもの足でもわずか数分でその上までたどり着けたはずだ。実際、佐藤さんがこの場所を案内した中で「登れない」と言った人は一人もいないという。
「ここまで津波が来たということは、ここまで来れば助かっていたということです。ここは、子どもたちが毎年登っていた山です。当然、あの日も、『先生、山に逃げよう』と言って、山に向かって走りだした子たちもいた。でも、『まず整列しましょう』って戻された」
裏山が命を救うことはなかった。最終的に子どもたちの避難先に選ばれたのは「三角地帯」。そして、子どもたちが動き出したのは大川小学校が津波に襲われる1分前だった。
最後の1分間、幅1メートルにも満たない狭い通路から一列になって校庭を出た子どもたちは、堤防からあふれてきた津波に向かって狭い道を進んだ。
「狭い通路を出て、走っていく子どもたちの姿を想像してほしい。そうやって、どんどん逃げていく様子を思い浮かべてください。
自分自身も入れてください。自分の大切な人、大好きな人が、どんな顔をして走っているのか。全部想像してください。
そこまで想像できた人は『死にたくない』『大切な人を死なせたくない』と思う。それが防災意識の本質です」
佐藤さんにはある確信がある。大川小学校の教員たちが津波を見た瞬間に何を思い、どんな行動をとったのか。
「見たわけでも聞いたわけでもないので、想像するしかないのですが、100%分かります。
彼らは『あ、子どもを守れない』って思った。そして子どもたちを抱きかかえた。間違いない。彼らは、学校の目の前で、子どもたちを抱きしめたまま流されたんです。
でも、いくら子どもたちを強く抱きしめたところで、一列では無理です。1分では無理なんです。
悔しいのは、1分間必死になって逃げて、子どもたちを抱きしめたことではない。1分しか逃げなかったことが悔しいのです」
「子どもを救いたくない先生はいない。あの日も、必死になって子どもたちを守ろうとしました。
でも、事実として、結果として、救えなかった命になった。だから、考えなきゃ駄目です。
つらいから、かわいそうだから、頑張ったけど仕方がないで終わらせてしまったら、あの日の子どもの命も先生の命も無駄になると俺は思います」
最後の1分がもっと前だったら、どこに逃げるかを事前に考えていたら、結果は違っていた。そのきっかけやチャンスは何回もあった。でも、行動に結びつけられなかった。
「山は人の命を救わない。救うのは行動です。では、なぜ行動に結びつけられなかったのか。
もっというと3.11の前にやれたこと、するべきことがあったはずなのに、なぜそれができなかったのか。もっともっと考えるべきです。
大事なのは答えを出すことじゃない。このことに向き合い続けることです」
「未来を拓く」場所、大川小学校
大川小学校の体育館があった場所の脇に、しゃれた野外ステージがある。その後ろの壁には、卒業生たちの手によって描かれたカラフルな絵が今も残っている。
ちょうど中央あたりには、大川小学校の校歌のタイトルでもある言葉が記されている。「未来を拓く」――。
「震災前は、この壁を気にしていなかった。でも、がれきに埋もれている中、ここだけきれいな色が残っているのが見えた。
この言葉を見たとき、暗闇に一筋の光が差し込んでいるように感じました。『未来を拓く』は、これからもここの合言葉になる。そう思いました」
佐藤さんは大川小学校を訪れた人みんなにお願いしている。
「ここはつらくて、かわいそうで、悲しくて……なんて言われます。確かに悲惨な場所かもしれないけれども、大川小ってどういう場所だって聞かれたら、あそこは未来を拓く場所。そう答えてほしい」
「震災伝承には命を救う力がある」
ヤフーとLINEの寄付先団体のひとつである「公益社団法人3.11メモリアルネットワーク」は、佐藤さんのような語り部たちの活動を支えており、震災伝承に携わる人々のネットワークづくりだけでなく、防災学習の交流会や、基金助成による伝承活動支援・人材育成などにも精力的に取り組んでいる。
「LINEヤフーからいただいた検索寄付は、東北3県で、佐藤さんのような語り部の活動を支えるリーフレットや紙芝居づくりなどに活用しています。
また、震災伝承施設の運営や、県外での交流会参加にも使わせていただいています」と、専務理事の中川政治さんは話す。
リーフレットづくりや県外での活動には行政などの公的な支援が得られない場合が多く、民間資金であるLINEヤフーの検索寄付が後押しとなっているという。
2010年ハイチ大地震の緊急支援に従事した経験がある、中川さんは、東日本大震災の発生をフィジーで知り、「何かできることがあるのでは」と石巻市にやってきた。
当初は、経験を生かした緊急支援活動に従事したが、次第に震災伝承に軸足を移す。佐藤さんのような人を支えていくことが、災害で命が失われない社会の実現につながると考えるようになったからだ。
「震災伝承には命を救う力がある」と語る中川さんは、2024年元日の能登半島地震発生後、石川県珠洲市を物資配布のために訪れたとき、それを改めて実感したという。
「現地でおばあちゃんに『なんで逃げられたんですか』と聞いたら、『東北のこともあったから。うちは海が目の前だから、本当にすぐ来ると思って逃げた』と言うんです。東日本大震災の教訓が伝わり、命を守る行動につながっていると思いました」
LINEヤフーの検索寄付を活用して2021年度に行った調査ではこんなことがわかった。
オンラインの語り部イベントに参加した21校1247名の子どもたちを対象としたアンケートで「聞いた話を誰かにしたいと思うか」という問いに対し、聞いた直後は78.7%が「家族に話したい」と回答、年度末(3月)の追跡調査時には、65.0%が実際に「家族に話した」と回答したのだ。
「語り部を通じて、家族と話す行動や、『大切な人を守りたい』という意識の変化が起きていることがわかりました。まさに、震災伝承が、命を守る力になっているんです。10年経ってようやく、語り部の効果を調査することができたのは検索寄付のおかげです」
震災伝承の取り組みに対する公的支援は小さい。国は東日本大震災後、巨大防潮堤に巨額の費用を投入した。
しかし、珠洲市の人々が防潮堤を越えた津波から迅速に避難できたこと、そして、大川小学校の裏山が子どもたちの命を救わなかったことからもわかるように、最終的に人の命を守るのは行動のはずだ。
しかし、人々の心を変え、行動させる震災伝承の活動は、3.11メモリアルネットワークのような民間ならではの取り組みだ。
中川さんは語る。
「救急隊員や医者、自衛隊員……。みんなが命を守る仕事だと認識していますよね。
一方、語り部のみなさんは、社会的地位はもうゼロに等しい。ボランティアでやりたかったらやれば、といった扱いです。
でも、語り部の皆さんは、本当に大事なタイミングで命を守る決断や行動を生み出す人たち、日本に必要な人たちだと思うんです」
佐藤さんのような語り部のつながりや、"語り部を職業として成立させたい"と取り組む若者たちへの支えが求められている。
「『伝承』という新しい取り組みの価値や持続性を高めることが、私にとっての『未来を拓く』活動です」と語る中川さん。
災害から命を守るための「未来を拓く」取り組みは、13年後も東北で続いてゆく。
INFO
東日本大震災があった3月11日を、みんなの未来を守る日へ。
知ること、支援すること、備えること。
わたしたちにできることが、きっとある。
寄付の詳細を見る
LINEヤフー「3.11 これからも、できること。」
その他寄付先の活動レポート