「震災のとき、自分は東京にいた。被災者ではないんですよ」
福島県出身の男性が唇を震わせて語る。彼は12年前の3月11日、津波で父親を亡くした。 突然の大災害で、愛する家族を失ったにも関わらず、彼は言った。
「自分はまだよかったんですよ」
震災当時、彼の仕事仲間だったはるな愛は、その言葉に込められた真意に大粒の涙を流した。
津波にのまれた街にも新たな建物が建ち、被災地の景色は変わった。
復興の過程をずっと見てきたからこそ、はるなは被災地の変化をはっきりと感じるという。
しかし"変わらないもの"もあると、はるなは言葉に力を込める。
「震災では多くの命が失われました。その家族、友だちは今も消えない傷を抱え続けていると思うんです」
「変わってよかった面があるのはもちろんだけど、私はその"変わらないもの"とともに生きる皆さんに寄り添いたい」
今回、はるなは東北地方の3カ所をめぐる旅で被災者と語り合いながら、それぞれの12年間について考えた。
震災当時、福島県相馬市内の小学校に通う2年生だった鈴木海恵(かいえい)さんと、その母親の亜輝子さん。
2人は避難先だった向陽中学校で、はるなの訪問を受けた。
「愛ちゃんが希望を見せてくれたんです」
切り出したのは亜輝子さんだ。
鈴木さん親子の家は津波の直撃を受けて全壊。避難所での生活を余儀なくされた。
「知り合いが亡くなったらしい」
「家族がまだみつかっていない」
「家が津波にのまれた」──。
避難所では暗い話題ばかりが飛び交い、鬱々とした空気が広がっていた。
張りつめた空気を察知した子どもたちからは表情が消えたという。
その空気を一変させたのが、はるなだった。
「はるな愛が来るらしいよ」
訪問の少し前から噂が回り始め、それまで自分のスペースから動くことのなかった人々もそわそわして中学校の1階に集まり始めた。
本人が現れると、子どもたちは一斉にはるなを取り囲み大騒ぎ。大人も「愛ちゃん!愛ちゃん!」と呼びかけて握手を求め、避難所全体に明るい声が響き渡った。
子どもたちに明るい笑顔と元気な声が戻ったことで、避難所の雰囲気は変わった。
はるなが帰った後には、海恵さんら子どもたちは避難所中を行き交い、集まって遊ぶようになったという。
「最初に来てくれた有名人が愛ちゃんで、心が救われました。光が見えた気がしました」
はるなはこぼれ落ちる涙を拭いながら「お互い様なんです」と答えた。
はるなは震災の前の年に走った24時間テレビのチャリティーマラソンで、全国から多くの応援を受けた。
ファックスやメール、手紙ひとつひとつに目を通し、力をもらったのだと話す。
いつか必ず恩を返そうと思っていたことが、はるなを突き動かす原動力になったのだ。
「私は皆さんの顔を見て、自分がテレビに出ていた意味があったと思いました。今後、自分のやるべきことが見えた気がしたんです」
はるなも避難所で力をもらった。12年前から思い続けてきた「お互い様」という言葉を、改めて噛みしめるように繰り返した。
海恵さんはこの春に成人式を迎えた20歳。漁師として働くために修行中だ。
高校卒業後、一度は会社員として働いていたが、2022年に漁師である父親の利夫さんが脳梗塞で倒れた。
「一命は取り留めたのですが、右半身の麻痺や言語障害が残り、父は船に乗れなくなってしまったんです」
震災発生直後、利夫さんは津波にのまれながらも、必死の思いで船を沖に出して守ったという。
海恵さんは父親が命をかけて守った船を受け継ぐため、漁師になる決断をしたのだ。
しかし、福島の漁業を取り巻く事情は複雑だ。亜輝子さんはこう話す。
「立派で新鮮な魚を売ってもがっかりするような値段になっています」
福島第一原発事故でイメージが悪くなったことに加え、廃炉作業に伴う処理水の海洋放出が2023年の春から夏に予定されている。
それでも海恵さんは前を向く。
「今は福島の魚を食べたくないっていう人も多いと思いますが、本当に美味しい魚が獲れるんです。父のような漁師になることを目標にこれからも頑張っていきます」
自分の避難所訪問が、誰かの人生にわずかでも影響を与えたかもしれない。
そう思えたことがはるなにとって、この上ない喜びになったのだった。
2011年3月24日。
櫻井さんは、はるなとともに東京から被災地へ向かう車中にいた。
支援物資を大型ミニバンいっぱいに詰め込んで目指したのは、櫻井さんの地元である相馬市。
海とともにあった故郷は津波にのみ込まれていた。
複数の飲食店を経営するオーナーとしての顔も持つ、はるな。
当時、六本木の店舗で店長を任されていたのが、漁師の櫻井さんだった。
震災発生直後、ニュースを呆然と眺めていたはるなは、だんだんと「現地に行きたい」と思うようになった。
店の立ち上げから一緒だった櫻井さんとは家族同然の付き合い。震災前から相馬市を何度も訪れ、櫻井さんの地元の友だちの結婚式に出席したこともある。
被害の様子を伝えるテレビの画面越しに、相馬の仲間の顔が思い浮かび、心配でならなかった。
「行けるなら、相馬行こう」
声をかけると、櫻井さんは案内役を買って出た。
はるなは思いつく限りの支援物資を買い込み、仕事で空いた時間があれば、自作の募金箱を持って渋谷の街角に立った。
そして3月24日、震災以来ようやく一般車両の通行止めが解除された東北自動車道を使って、2人は相馬市に到着した。
「どうしてこんなところに船があるの?」
海から遠く離れた国道ではるなは目を疑った。辺りを見回すとあちこちに大きな船が転がっている。
櫻井さんの実家があった場所に何とかたどり着くと、家屋は津波に流されており、残っていたのは基礎だけだった。
櫻井さんは「ここが風呂、ここはトイレがあった場所です」と、指を差して説明したという。
父親の芳男さんとは連絡がつながらず、周囲が無事を信じる中、避難所では母親の友子さんだけがなぜか「父ちゃんはもうダメだ」と泣き続けていた。
その日は3カ所の避難所を回って、深夜に東京に戻った。3月中にさらにもう1度相馬市を訪問している。
櫻井さんは4月に入り、はるなに休職を申し出た。行方不明の父・芳男さんを探すためだった。
1カ月にわたる奔走も叶わず、櫻井さんは5月はじめに東京へ戻った。ちょうどそこに1本の電話が入る。
「お父さんの遺体がみつかった」
仕事に出ていた芳男さんは地震が収まると自宅へと急ぎ、家にいた家族を車に乗せて避難。無事に避難先で知人らと落ち合った。
しかし、芳男さんには気がかりなことがあり、もう一度自宅に戻ってしまったのだ。
そのとき自宅には、あとから家に帰ってきた妻の友子さんが残っていた。誰もいなくなった家の中で、地震で散らかった部屋を片付けていたそうだ。
「何してんだ!早く逃げろ!津波が来るぞ!」
芳男さんは、友子さんを先に車で逃がした。
逃げる友子さんが振り返ったとき、追ってくるのは芳男さんの車ではなく、津波だった。
母が後日話してくれた、あの日の真相。
遺品の財布には大金が入っていた。芳男さんは避難生活で現金が必要になると思って家へ取りに戻ったため、逃げるのが遅れたとみられている。
櫻井さんはそれを、はるなにまだ話していなかった。
芳男さんの最期を初めて聞いたはるなは、絶句した。
櫻井さんが今日までこのことを話せなかったのは、東京にいた自分は被災者ではないと感じ、悲しい顔をするわけにはいかないという意識があったからだ。
櫻井さんに限らず、つらい体験をしたはずの被災者から、「自分なんか」「もっとつらい人はいる」という言葉を聞くことがある。
「一家全員亡くなった方もいる。小さな子どもも命を落とした。父が最期に母の命を救ったのだと思えるだけ、自分はよかったんですよ」
櫻井さんは結婚を機に東京を離れ、父と同じ漁師の道へ進んだ。
「海は命を奪う怖いものではあります。でも命を生み、育むものでもある。魚を食べればみんな笑顔になるし、泳いだり、貝拾いをしたりすれば思い出になる。海はいいですよ」
「愛ちゃん!愛ちゃん!」
日も暮れかけた頃、宿に到着すると女将の菅野一代(かんのいちよ)さんがぴょんぴょんと飛び跳ねながら駆け寄ってきた。
はるなは2年前、この民宿をロケで訪れた際に一代さんと意気投合。以降は連絡を取り合う仲になっている。
だが、宿泊するのは今回が初めて。お酒を飲みながら膝を突き合わせて語り合う夜となった。
一代さんは、岩手県久慈市からこの地で100年続く牡蠣の養殖業者「盛屋水産」に嫁いできたが、津波で牡蠣の養殖いかだが流され、自宅は全壊。
当時海辺で作業をしていたが、遠くから「早く逃げろ」という叫び声が聞こえ、近くの山へ必死に駆け上がり何とか助かった。
「震災前年の2010年2月に起きたチリ地震で、この辺りは津波の被害を受けて、養殖いかだがぐちゃぐちゃになってしまったんです」
「1年かけて少しずつ直して、最後のいかだを設置し終えたのが3月10日。夫と乾杯した翌日の震災だったので、これは立ち直れないなって」
いかだの再設置は気の遠くなるような作業だったが、広島の養殖業者の応援を受け、同年夏頃には何とか養殖の再開にこぎつけたという。
2013年には津波でボロボロになった自宅を改装し「唐桑御殿つなかん」を開業。
これ以上悪いことはないと思った震災のどん底から、人に助けられながら何とか立ち直ることができた。
しかし、また頑張ろうと前を向いた矢先、一代さんをさらなる悲劇が襲った。
2017年、わかめ漁に出ていた船が海難事故に遭い、夫の和享さんと長女、三女の夫が海に投げ出された。
長女の遺体はみつかったが、夫の和享さんと三女の夫はいまだ行方不明だという。
一代さんはあまりのショックに、真っ暗な部屋に閉じこもってしまったと話す。
「光を見るのも、音を聞くのも、においを嗅ぐのも嫌。どう考えたらいいんだろう、この悲しさは何だろうと考え続けて、布団にくるまって何日も過ごしました」
家や養殖いかだが流されても、時間をかけて、人の助けを借りれば立ち直ることができた。人間は頑張れば何でもできるんだと思っていたという一代さん。
しかしこの事故で、泣こうがわめこうがどうにもならないことが現実にはあることを突き付けられた。
「生きるのがつらくなった。光を見ることさえ怖くなってしまった」
それでもある日、一代さんは今の自分を長女や夫が見たらどう思うか考えたという。
「お母さん、何やってんの?」
「一代にそんな風に悲しまれたら、俺たちも悲しいべ」
そんな声が聞こえてくる気がした。
死んだら人の魂はどこに行くのか、本を読み漁り、宗教について調べもした。行きついた答えは「どうしたって死んだ人は戻らない」ということだった。
やっと諦めがついたとき、肩の力が抜け、気が楽になった。そして事故から3カ月後、一代さんは民宿を再開する。
「人はいつか死ぬ。目の前の人とはもう二度と会えないかもしれない。そう思うと人が尊くなって、毎日全力で宿泊客を迎えるようになったの」
話を聞いていたはるなは、大粒の涙がこぼれて止まらなくなった。
「私は、身体は男に生まれたけど心は女で、自分らしく生きることを否定されたこともあったけど、それでも自分の道を進んできました」
「つらい道を歩んできたからこその輝きやパワーがあると私は信じていて、女将さんもきっとそうなんやなって思うんです」
「被災者の皆さんにも、人生捨てたもんじゃないって思ってもらいたい。生きててよかったって思えるキラキラした瞬間がいっぱいあるよと伝えたい」
「それが被災地に通い続けている理由なのかもしれません」
一代さんにとっての12年。それは諦めないで頑張ることの大切さを知った6年と、人生には諦めなければならないことがあることを知った6年だった。
今でも仏壇に向き合うときには手が震え、事故現場へ花を手向けに行くどころか、まだ海すら直視できないという。
それでも1人でも多くの人に、夫が大切にした海の幸を味わってほしい、夕日の沈んでいく海の景色を見てもらいたいのよ、と笑った。
「私には大切にしている言葉があるんです」
はるなは言う。
「人との出会いやつながりは、力をくれて、悲しみを和らげてくれる」
「2度と大きな災害は起きてほしくないけど、もしまた災害やつらいことがあったときは、それを忘れないようにしたいと改めて感じました」
「私はこれからも、東北の皆さんのところへ元気をもらいに通い続けます」
INFO
東日本大震災から12年。あの時を忘れないために、教訓や学びを次代につなげていくために、私たちにできることがあります。