羽生結弦が124日ぶりに銀盤の戦いに戻ってきた日。
ちょうど、東京に桜の開花が告げられた。
単なる偶然の巡り合わせと切り捨ててしまえないのは、彼のとりこになってしまっているからだろうか。
カメラマン小海途良幹が描いていたイメージに、ぴたりと重なったからだろうか。
3月下旬の世界フィギュアスケート選手権。右足首を痛めた昨年11月以来の復帰戦となる絶対王者を、どう撮るかー。
「彼が復活して、すべることでリンクに春を呼ぶ」
大会前に湧いた着想は、会場を見渡すとさらに膨らむ。選手が演技後に採点を待つ「キス・アンド・クライ」が、桜の装飾で彩られていた。
公式練習の日、すべり始める1時間前からファインダーをのぞいて待った。そのわずか15分後。ひょこっと姿を現した羽生を、レンズで捉えることができた。
「普段は出てくることないんですけどね」
こちらの意図をくみ取ったかのような動きを見せることは少なくない。その反面、予期できないことも多い。
「彼は、絶対に目を離してはいけない対象だと思っています」
シーズンを通して披露するプログラムは同じでも、毎回違った"サプライズ"に出会う。
3月23日の男子フリー。
演技終盤、氷面に沿うように低く体を倒した「ハイドロブレーディング」の瞬間がそうだった。
天に突き上げた右手の指先の形が、いつもと違う。
「そんなところまでアレンジを入れてきたんだな」
わずか2秒ほどの動作でも、ファインダー越しだとよく分かる。
「撮れてる、撮れてる」。連写しながら、知らないうちに表情は緩んでいたかもしれない。
「変化を見つけるのを楽しんでいます」
そう涼しげに笑う35歳の会社員は、SNS上で「神」と呼ばれている。
「太陽」と「神ラマン」
「いつもありがとうございます!」
フィギュア会場で、女性たちから話し掛けられることが増えた。中には海外のファンもいる。
「小海途神」
「小海途神ラマン」
Twitter上では、羽生を捉えた写真とともに、そんな言葉が並ぶ。
中国版TwitterのWeiboにまで「小海途 棒棒」なんて書き込みがあるという。
棒は「素晴らしい」という意味だと、小海途は友人から聞いた。
「もう変なことできませんね (笑)」
面はゆい思いもあるが、冷静に現状を見て言う。
「羽生選手は太陽なんです。まばゆい光を放っているからこそ、僕みたいな周囲の人間にも光があたるということなんだと思います」
王者に立ち向かう挑戦者
太陽の光は、すこぶる強い。
常にカメラを構え、どんな動きをするのか頭をフル回転しながら1日を過ごすと、まるで日光を浴び続けた時のようにぐったりする。
大会期間中、気を付けていても体重が減る。
体力勝負の面もあり、週2、3回は10キロ超のランニングは欠かさない。
「彼を撮るときは、王者に立ち向かう挑戦者の気持ちで臨んでいます」
全力でぶつかっていくと、思った以上の力を引き出してくれる感覚もある。
スポーツ選手というくくりでは片付けられない存在。小海途は「表現者」だと思って対峙(たいじ)している。
「いつも何かを表現しているからこそ、見ている者にインスピレーションを与えるのかなと」
会見場で、横顔を捉えていたときのこと。
ふと「透明感」というキーワードが浮かび、とっさにカメラの設定をいじった。
「10年のカメラマン人生で初めて」というモノクロ写真。色を排除した引き算が、かえって羽生の繊細な顔立ちを引き立たせた。
「偶然でいいものが撮れることもありますが、それじゃあ面白くない」
羽生の演技後にお決まりとなっている"黄色い雨"。ファンがこぞって、くまのプーさんのぬいぐるみをリンクへと投げ込む。
2018年の平昌五輪の際、撮影データを見返していると、アップでぬいぐるみがたまたま写り込んでいる1枚があった。
「あれだけの量だから、フレームインすることもあるのか」
どうせなら、構図を完成させてみたい。
羽生と、大観衆と、プーさん。
今大会のショートプログラム終了後、狙った通りの1枚に仕上げてみせた。
アスリートに宿るドラマ
レンズを通して切り取れるのは、きっとアスリートの表面的な姿だけでないはず。
フィギュア女子のアリーナ・ザギトワが、平昌五輪の表彰式でさっそうとリンクへと飛び出して行く背中。
平昌五輪で一気に世界の頂点へと駆け上がり、「ザギトワ時代の扉が開いた」との思いを込めてシャッターを切った。
その後、彼女は不振に陥る。ロシア国内の大会で5位に沈むこともあった。
迎えた今回の世界選手権。さいたまスーパーアリーナのリンクで目撃したのは、苦悩を乗り越えた五輪女王の涙だった。
写真は、過去の歩みや思いをも写す。
そんなドラマにも、ピントを合わせたい。
一瞬を撮るための準備
早稲田大学時代に知人のカメラマンに薦められて志した道。スポーツ新聞を発行する「スポーツニッポン新聞社」に入社後、主に阪神タイガースなど野球を撮ってきた。
その一瞬を逃せば取り返しのつかない世界で、準備だけは抜かりなくやってきた自負がある。
この写真を真っ先に撮ったのは、きっと自分だ。
14年の夏の甲子園で、東海大四 (現東海大札幌)のエース西嶋亮太投手が投じた山なりの「超スローカーブ」が話題になった。
その存在を事前に調べていた小海途は、外野のカメラ席で大観衆が驚く1球が投じられるのを待っていた。
外野にいるカメラマンは、超望遠レンズで打者を大きく写すのが定石。だが、それでは画角から球が消えてしまう。
打者は捨て「全球、引いて待ちました」
思い切った判断が、大きな弧を描いた白球の頂点を捉えた。
「その大会、その場面を象徴する1枚を撮りたいとは常に思っています」
将棋の藤井聡太が17年に公式戦新記録の29連勝を達成した際も、駒で「29」をかたどったボードを事前に用意。
偉業を視覚的に訴える写真は、多くの新聞一面を彩った。
「狙いと準備が整っていれば、おのずと結果も出やすい」
数々のプロを撮ってきたプロは、昨年ひとつの集大成に臨んだ。
平昌五輪。もちろん、相手は「太陽」だった。
確信が導いた格別な1枚
来るべき日の半年も前から、ずっと頭を悩ましていた。
「羽生、金メダル」の瞬間に、ふさわしい写真とはー。この時ばかりは「特別な歓喜の瞬間」のイメージが湧きづらかった。
「彼はそんなに感情を爆発させるということがないので、どうなるか想像もできなくて…」
過去の写真をほぼ全てと言っていいほど見返した。演技後の表情や動き。つぶさに分析しながら、ひとつの答えにたどり着いた。
「感情が爆発するときは、きっと無意識下。その時、その人ならではのクセが出るはず」
羽生が無意識に近い状態であろう瞬間のクセが、確かにあった。
18年2月17日。
陣取った席の近くに、ほとんど他社のカメラマンはいなかった。
同じシーンでも、5〜6メートル撮影位置が横にずれると全く違う印象になるというフィギュアスケートの写真。
多くのカメラマンが"手堅い写真"の撮れる場所に集まる中で、確信を持って攻めた。
フィニッシュポーズを正面から捉えられるポジションを、あえて外した。
4分半にわたるフリーの演技が終わり、大歓声に包まれる。
右手を目いっぱい突き上げた羽生は、衝動に駆られたように1歩、2歩と動き出す。
汗も拭わず、くしゃっと表情を崩しながら、こちらへと向かって来る。
読みは、完璧に当たった。
両手を広げ「勝ったー!!」と雄たけびを上げる姿を、ほぼ真正面に捉えた。
もう、夢中でシャッターを切った。
「これで決まったな」
全てを撮り終えると、誰にも見られないように小さくガッツポーズをした。
「僕にとっても大勝負でした。負けなくてよかった」。もちろん翌日の一面を飾り、その年の東京写真記者協会賞・スポーツ部門賞(海外)を受賞。
フィギュア男子では66年ぶりという大偉業の、まぎれもない象徴となった。
ファンから学ぶことも
羽生は今月11日からの世界国別対抗戦の欠場を発表し、一足早く今シーズンを終えた。
世界選手権は2位に甘んじ、さらに勝利に飢えた姿で来シーズンのリンクに立つに違いない。
またすぐにやって来るレンズを通した戦いに備え、地道な準備を繰り返すだけだ。
新たなプログラムが披露されれば、何度も映像を見て動きを頭にたたき込む。
自らがひとつのプログラムで撮影する枚数は約1300。それも延々と見返しながら、反省と対策を考えていく。
"意外なカメラマン"の作品も参考になるという。
「ファンの皆さんもすごくうまいんですよ」
海外の大会では観客席からの撮影も許可され、会場の至る場所からシャッターが押される。
「僕らとは違う場所から撮られたものを見て、新たな発見もある。あと、なにより情熱がありますよね。その熱量って写真に出ますから」
Instagramも大事な参考書。
そんな向学心旺盛な「神」は、未来の羽生をイメージするだけで、好奇心が抑えられない。
「今後、どういう姿を見せてくれるのか。その姿をできるだけ印象的に撮りたいですね」
まだ見ぬ1枚を追い求め、誰よりも長くファインダーをのぞき続ける。
【取材・文 : 小西亮 (LINE NEWS編集部)、動画 : 松本洸 (LINE NEWS編集部)、前野雄介】