12月17日。日本人カメラマン、岸本勉はロシアの地方都市サランスクに降り立った。
ロシアフィギュアスケート選手権を撮影するためだった。
同じタイミングで、全日本フィギュアも開催されていたが、あえてロシアに渡った。
日本ならまだ中学生のジュニア世代に、逸材がそろっているといううわさを聞いていたからだ。
その結果、岸本はロシアフィギュア界の「地殻変動」をも目撃することになった。
その一部始終を、彼の写真と証言で振り返る。
本当に、美しい。
余計な言葉は何もいらない。
アリョーナ・コストルナヤ。
2003年8月24日生まれの15歳。
この瞳を撮りたくて、ロシア選手権取材を決めた。
想像以上に、彼女はフォトジェニックだった。僕にとっては浅田真央、キム・ヨナ以来かもしれない。
公式練習会に現れた彼女は他のどの選手よりも華があった。15歳にして、オーラがあった。
彼女が氷上に立つだけで、薄暗いサブリンクが、パッと明るくなる感じがした。僕は彼女にのめり込んだ。
しかし、この大会には、そんな僕の想定を超えるサプライズがあった。
フィギュア大国、ロシアにとっても岐路だったかもしれない。
分厚い選手層を揺るがす、地殻変動のようなものが、ファインダーの向こうで起きていた。
ナーバスさを隠さない「女王」
平昌五輪金メダリスト。
日本でも人気のアリーナ・ザギトワは、他の選手よりも遅れて、大会前日に会場入りした。
バスから降りると、すぐにダウンコートのフードをかぶり、険しい表情で歩き出す。
グランプリシリーズのヘルシンキやモスクワでも取材はした。
その時とは、表情が違う気がした。こんなに厳しい表情をしていただろうか。
ナーバスなのは、世界女王への注目度の高さゆえだろうか。
しかし、ファインダー越しにのぞき込むと、目の光からはイラつきよりも、おびえのようなものが見て取れた気がした。
直前のグランプリファイナルで、彼女は紀平梨花選手に敗れていた。マスコミから容赦のない厳しい質問も浴びせられた。
16歳の少女には、少し酷な状況にも思えた。
加えて、大会初日のショートプログラム(SP)に臨む彼女の両ひざには、テーピングが施されていた。
成長からくるひざ痛だろうか。10代半ばから活躍するフィギュアスケーターにとっての「壁」かもしれない。
ぐるぐる巻きのひざは、とても痛々しく見えた。
それでも彼女は、やはり女王だった。
SPはパーフェクトな滑りで首位発進。
しかし、女王はそれでもナーバスなところをみせた。SP後に行われたフリースケーティング(FS)の滑走順抽選会。
レンズを向けると、彼女は他の選手の背中に隠れてしまう。
それでも少しだけ、カメラに笑顔を向けてくれた。16歳の女の子の素顔。
しかし、彼女の笑顔を撮影できたのは、この大会ではこれが最後だった。
4回転を決めまくる「露の宮原サン」
SPでザギトワに続く2位につけたのは、14歳のアレクサンドラ・トゥルソワだった。
僕はひそかに「ロシアの宮原サン」と呼んでいる。
周囲と話すときのはにかんだ感じ、控えめな感じが、宮原知子選手とどこか似ている。
しかし、リンクに入れば、イメージは一変する。
練習中から、4回転ジャンプを次々と決める。
コーチのもとに戻って指示を仰ぐ回数も少ない。メンタル的に誰かの助けを必要としない、芯の強さを感じる。
小柄だから跳べている、という声も聞く。
ただ、小柄だろうが、体はアスリート。締まった筋肉のよろいをまとっているように、ファインダー越しには見えた。
素晴らしい演技に目を細めていた現地記者が、ポツリと言った。
「彼女も身長が伸び始めている。今のザギトワ同様、いずれは成長痛に悩まされる」
これからの活躍を願わずにはいられない。
ロシアにはロシアのやり方がある
しっかりとした規制が敷かれる日本の大会と比べると、ロシアの大会はどこか牧歌的だ。
国内最高峰を争うロシア選手権であっても、それは変わらない。
会場入り、引き揚げなどの際に、ファンも選手と自然に接することができていた。
僕がほれ込んだコストルナヤにも、すでに多くの出待ちがついていた。
ファンは見る目がある。
外は気温マイナス10度。その中で、とうに70歳を超えているであろうおばあさんが、コストルナヤを待っていた。
コストルナヤが現れると、彼女の写真を取り出して、サインをせがむ。うれしそうな様子に、僕もほっこりさせられた。
選手エリアにも、牧歌的な雰囲気はあった。
練習前や、滑走順の抽選会の最中なども、選手たちはリラックスした様子。
こちらが思っているより、ずっと仲が良い。
そして抽選中も、スマホのゲームに夢中になっていたり、あるいは電話を始めたり。
日本なら「スマホはしまいなさい」と大目玉を食らうかもしれない。
ロシアは自由だ。
大会期間中、会場から出てきたトゥルソワと、ばったり会うことがあった。
足元には、愛犬のティーナ。チワワにはちょっと寒すぎるのだろう。ブルブルと震えていた。
トゥルソワも不思議に思っただろう。なぜ日本人カメラマンがこんなところに?と。
お迎えのお母さんと合流して、引き揚げていく。14歳の少女らしい姿。
選手の出入り口には一日中、カザンからやってきたというファンが張り付いていた。
彼によれば、あの「マサル」もザギトワに連れられ、会場入りしていたとか。
ホテルの部屋に秋田犬?ロシアの会場は、どこまでも牧歌的だった。
光が強ければ影も濃い。元・女王の現在
女子シングル最終日。
スタンドは早くから沸いていた。
ファンの視線の先には、日本でもおなじみのエフゲニア・メドベージェワ。
2016、17年と世界選手権を連覇し「絶対女王」と呼ばれていた彼女は、今も国民的ヒロイン。
氷の上に立っているだけで、拍手や歓声が浴びせられる。五輪金メダリストのザギトワに対する反応を、はるかに上回っていた。
彼女はよくしゃべる。明るい。表情も豊かだ。撮りがいがある。
ただ、若手の台頭著しいロシアにあって、立場は微妙になりつつある。
オーラもある。実績も揺るぎない。
ただ、それだけでは頂点に立ち続けられないのが、勝負の世界。
大歓声に背中を押され、FSでは順位を上げた。
しかし、SP14位の出遅れが響き、7位に終わった。
メドベージェワ同様、あるいはそれ以上に人気を得ている人物がいた。
日本でも有名な指導者、タチアナ・タラソワさんだ。
ソルトレーク五輪金メダリストのアレクセイ・ヤグディンと共に、TV解説でリンクサイドに陣取る。
時に立ち上がり、声援を送ったり、拍手をしたり。
練習中には、メドベージェワを指導するブライアン・オーサーさんと談笑していた。
彼は羽生結弦選手のコーチとしても知られている。
レンズを向けると、そろってカメラ目線でにっこり。
ビッグサプライズに、ロシアも揺れた
SP、FSともに、簡単な曲ではない。
だが、どこまでものびやかに、美しく。彼女は演じ切った。
アンナ・シェルバコワ、14歳。
世代交代を期待して大会を取材していた僕も、さすがに彼女が表彰台の中央に立つとは思わなかった。
同世代のコストルナヤ、トゥルソワ同様、線は細い。
しかし全身で、指の先まで意識を巡らせたように、美しく滑る。
FS冒頭。4回転ジャンプを決め、彼女は観客の心をわしづかみにした。
そして、最後の最後に繰り出されたガッツポーズが、会場を「サプライズの予感」で満たした。
この日一番の歓声。
SP首位のザギトワがFSでは2回転倒し、総合5位に後退したこともあった。シェルバコワは頂点に駆け上がった。
滑走順の抽選会から、彼女は仲の良いトゥルソワの隣に座っていた。
そしてメダリスト会見の壇上でも、2位に入った親友の隣に座る。彼女が最も望んでいた形だったかもしれない。
その日の夜。僕が大会期間中、連日通っていたレストランでウォッカのグラスを傾けていると、幸せそうに笑い合う一団が入ってきた。
家族、親戚連れだろうか。その輪の中心に、優勝したばかりのシェルバコワがいた。
みんなに祝福され、うれしそうにほほ笑む姿は、普通の14歳。
しかしこれを機に、彼女は確実にスターになるだろう。
クリスマスイルミネーションに彩られた夜道をホテルに向かいながら、半年前を思い返す。
2018年6月19日。
ここサランスクでは、サッカーW杯のコロンビア対日本戦が行われた。
暑い日だった。僕はサプライズを目の当たりにした。
半年後、マイナス15度のサランスクで、再びサプライズの場に立ち会った。
そして、選手たちはフォトジェニックだった。
光を浴びても、影が差しても、とにかくフォトジェニック。
同じタイミングで行われた全日本選手権を捨てて、ロシアに向かうのは賭けだった。
それが正解だったかどうかは、もはや関係はない。
フォトグラファーとして、幸せな気持ちで撮影ができた。
それが、全てだ。少なくとも、僕にとっては。
【撮影・文:岸本勉/PICSPORT、構成=LINE NEWS編集部】