晴れ渡った空の下、青々とした芝が輝くテニスコートで、車いすの大きな車輪を回す。
序盤から相手にリードを許す苦しい展開。粘りのプレーでボールに食らいつく。一瞬たりとも気は抜けない。
勝負どころは見逃さなかった。マッチタイブレーク、劣勢から怒とうの追い上げで7ポイントを連取して突き放し、3時間20分の死闘に幕を下ろした。
最後のショットを決めた瞬間、ラケットを手放し力強くガッツポーズを作る。その両手ですぐさま顔を覆い、喜びをかみしめた。
2022年7月、ロンドン郊外のオールイングランド・クラブで行われたウィンブルドン選手権。
車いすの部・男子シングルス決勝戦の大逆転劇で手にした優勝カップは、日本の絶対王者にとって、まさに悲願だった。
"車いすの選手が、1人でコート全面をカバーするのは難しい。"
ウィンブルドンでは長い間そう考えられ、車いす部門はダブルスのみが開催されていた。
理由はコートにあった。ハードコートの全豪オープンや全米オープン、クレーコートの全仏オープンといった他の大会とは異なり、ウィンブルドンの足元には天然芝が敷かれている。
柔らかい芝の上では、車いすのタイヤが沈み、スピードが出しづらくなる。国枝いわく、ハードコートに比べてこぐ力が3倍くらい必要なのだという。
選手たちの技術の進歩や車いすの軽量化などを経て、2016年からウィンブルドンの車いすテニス部門にシングルスが加わることになった。
「もう1個宿題が増えた」
シングルス新設が発表されたのは2015年の7月。この年も好調に全豪・全仏・全米を制した国枝にとって、ウィンブルドンは"最後の難関"だった。
しかしこのあと、国枝は"どん底"を味わうことになる。
2015年10月、右肘に違和感が出た。過去に手術をした古傷だった。
だましだましプレーを続けるも、思うように成績を残せなくなった。翌年1月の全豪オープンではグランドスラムで初の初戦敗退を喫し、世界ランキング1位の座から引きずり降ろされた。
さまざまな治療を試し、4月には内視鏡によるクリーニング手術も行った。けれど復帰後の全仏オープン直前、痛みに襲われた。
9月のリオデジャネイロパラリンピックでは痛み止めを注射して出場するも、シングルスは準々決勝で敗退。3連覇はならなかった。
リオ大会後、再び右肘が悲鳴をあげた。痛みでバックハンドが全くできない状態だった。3カ月間ラケットを置いて休養をとったが、それでも症状はあまり改善しなかった。
「このまま、キャリアが終わるかもしれない」
絶望のふちに突き落とされても、国枝は諦めず、はい上がった。
休養中に多くの選手のショットを研究してきた。ラケットの振り方を変えれば、肘への負担が減るのではないか。そう考えフォーム改造に努めた。
「本当に初心者のような状態からのスタートでした。最初は、バックハンドで返したボールがネットにすら届かなくて…」
次のパラリンピックは東京開催。"母国で金メダルを取って最強を証明する"という目標が彼のモチベーションとなった。
新しいフォームのおかげで肘の痛みが引くにつれ、パフォーマンスは向上していった。そして2018年、ついに世界ランク1位へと返り咲いた。
国枝の最大の武器は「チェアワーク」の良さだ。車いすテニスでは2バウンドまでの返球が認められているが、国枝はほとんど1バウンドでリターンを打つ。
しかし、ウィンブルドンの芝のコートではその強みが消されてしまう。
車いすでの動きにくさに加えて、芝ではボールが滑りバウンドが低くなる。そのためパワーがあり球速を出せる欧米選手に有利とされている。
2021年大会では1回戦で敗退した。そんなとき、元世界王者ロジャー・フェデラー氏とのオンライン対談の場が設けられた。
ウィンブルドン史上最多8度の優勝を果たし、今年9月に引退した"芝の帝王"は、国枝にとって憧れの選手でもあった。
対談で芝の攻略法を尋ねると、フェデラー氏はこう答えた。
「最高のディフェンスは攻撃に出ることだ」
攻めたプレーをすれば、ミスにつながるリスクも増える。ミスをすれば選手は慎重になり、挑戦をためらいたくなる。しかし彼はこう続ける。
「芝のコートで後悔は許されない」
判断をコロコロと変えることなく、トライし続けることで、ポイントを積み重ねられるという。
攻めの姿勢が大切だというウィンブルドンのセオリーは分かっていた。しかし、帝王の口から語られるという、これ以上の"保証"はなかった。
東京開催が決まった2013年から、新型コロナウイルス感染拡大による延期を経ての8年間、"東京で金"を目標に掲げ、キャリアを送ってきた。
そんな念願をかなえたからこそ、東京パラリンピック以降、ノンプレッシャーで全米、全豪、全仏に挑むことができた。
順風満帆に優勝を重ね、いよいよ始まったウィンブルドン。
「こんなに緊張感なくて、逆に大丈夫かなって思うくらい、いい流れでした」
準決勝までトントン拍子に勝ち上がり、ついに王座まであと1勝となった。
決勝戦の朝、急に心臓が激しく鳴った。東京パラリンピックのときに感じた大きなプレッシャーを、まさか再び味わうことになるとは思っていなかった。
鼓動を少しでも鎮めようと、音楽をかけて気を紛らせた。
緊張と高揚感を胸に抱えながら、コートに入る。相対するのはイギリスのアルフィー・ヒューエット。多くの観客が地元選手の初優勝を期待するアウェーの中、決戦の火蓋が切られた。
熱い声援を受けたヒューエットに、第1セットを奪われる。続く第2セットも2ゲームを連取されるが、ブレークバックに成功し同点へと追いつく。
すぐさまヒューエットがパワーショットで先行。そこに国枝が食らいつく。猛烈なブレーク合戦を打ち破り、4-5から国枝が3ゲームを連取。勝負の行方はファイナルセットに持ち込まれた。
迎えた最終の第3セット、ヒューエットに3ゲーム連取を許す。何度追い詰められても、芝の帝王が口にしたセオリー通り、攻め続ける。
「自分はすでに38歳。今年がラストチャンスかもしれない」
そう思うほどに、勝利への貪欲さも増していく。
両者の攻防戦は続き、試合は10ポイント先取のマッチタイブレークまでもつれ込んだ。そこでもヒューエットにポイントを先行され、国枝が追う展開となった──。
焦ることが頭を働かせることにつながり、自分自身が変わるきっかけとなる。
「スポーツの世界では現状維持=衰退なんです」
負けているときはもちろん、勝っている時期にも自らを変え、進化し続けなくてはいけない。
自分はどうなりたいのか、どうすれば勝てるのか──考えることを欠かさない。それがスポーツの世界で生き残る術だ。
「俺は最強だ」を座右の銘に自らを鼓舞し、より強い自分を追い求め、キャリアを重ねてきた。
そんな国枝だからこそ、ウィンブルドン決勝、何度窮地に立たされても闘志は揺るがなかった。
マッチタイブレークの接戦、中盤から国枝がポイントを連取する。6-5からヒューエットが3本続けてのミスショット──その勝機を国枝は逃さなかった。
最後は見事なリターンエースを決め、激闘を締めくくった。
悲願のウィンブルドン優勝。キャリアを通じて4大大会とパラリンピックを制する「生涯ゴールデンスラム」という、テニス史に残る偉業を達成した瞬間でもあった。
「やめなくてよかったな」
涙ぐむ妻の愛さんと、力強く抱き合った。
王者に優勝カップが渡される。青空に掲げたシルバーの杯が、太陽の光を反射する。
「これで、取り残したタイトルはもう1つもないと胸を張って言えます。いつでもキャリアを終えることができるという思いです」
過去にも似た感覚に直面したことがあった。
2007年に車いすテニス史上初の年間グランドスラムを達成したころ、モチベーションが低下した時期があった。
当時の年間グランドスラムは全豪オープン、ジャパンオープン、ブリティッシュオープン、USウィールチェアの4大会を制覇することだった。写真は2007年の全豪優勝時|Photo by gettyimages
テニスを楽しめなくなっていた当時、試合の勝敗を基準にするとやる気の波が上下することに気付いた。
「サーブを強くしたい」「フォアハンドをより正確にしたい」。そうして自分の腕を磨くところにモチベーションを置くことが、立ち直るきっかけになった。
今回もやることは同じ。現状に甘んじず、自分の持っているテニススキルや戦術を疑う。積極的に自らを変えようとすることが、国枝のモチベーション維持の秘訣だ。
東京パラリンピック金メダル獲得後には、"燃え尽き症候群"のような状態に陥ったという国枝。妻の愛さんに背中を押され出場した全豪オープン決勝戦でのバックショットが、情熱を取り戻すきっかけとなった。
変わりたいときのキーワードは「Small difference make big difference = 小さな変化が大きな変化を生む」。
急に大きな変化を目指すのではなく、小さな変化を一つずつ積み重ねる。
「『今までのままでいいや』って努力をやめちゃうと、めちゃくちゃつまらないんですよ。自分を変えることにトライして、変化を認識したときがすごく楽しい瞬間でもあります」
40歳という節目が迫った今、キャリアの転換点でもあることは認識している。しかしフィジカル面に大きな問題はない。
「あとは、どれだけ心がついていけるか。自分自身に満足がいくそのときまでは続けたい」
車いすテニス界は、昔と大きく変わった。
「僕が車いすテニスを始めたときは、プロ選手はいなかったですし、実業団といった社員契約のアスリートもいませんでした。みんな、有給休暇を使って会社を休んで大会に出場していました」
仕事との両立にも苦労する時代だった。2009年、国枝が車いすテニス選手として日本初のプロ転向を宣言した。
そこから少しずつ、選手を支える土壌が作られていった。
東京パラリンピック開催決定を転機に、車いすテニスに限らず多くのパラアスリートがサポートを受けられるようになった。
「それがいい方向なのか、そうじゃないのかは、これからのパラアスリートの活動次第。まだ答えを出すには早いと思っています」
「いい方向にしていくために、選手それぞれの今後の活動が重要になっていくのでは」
国枝は、競技の認知向上にも尽力してきた。
例えば、日本で唯一のATP(男子プロテニス協会)ツアー公式戦である「楽天・ジャパン・オープン・テニス・チャンピオンシップス」には、2019年大会から車いすテニス部門が採用された。
実は、10年以上も前から嘆願してきた成果だという。
「健常者の大会の中に、車いす部門があるという枠組みは、ウィンブルドンなどのグランドスラムの大会と全く同じなんです」
他のパラスポーツと比べ、車いすテニスは立ってプレーするテニスとの差が小さい。
2バウンドでの返球が認められていること以外、ほとんど同じルールで行われ、コートの広さやネットの高さ、ラケットやボールの規格にも違いはない。だからこそ、同じ大会で競技を行うことができる。
理由は、国際テニス連盟が一本化して管轄してきたことにある。そのためグランドスラムも共催で、昔から賞金も用意されていた。
「他のパラスポーツであっても、一緒の大会でやれる競技はたくさんあると思います」
「同じ大会として開催することで、より多くのスポーツファンに、パラスポーツへの興味を持ってもらえたら」
長い期間を経て、選手を取り巻く状況が変わっていく中、後輩たちも次々と活躍を見せている。
16歳の新星・小田凱人は11月に、車いすテニスの年間王者を決めるNEC車いすテニスマスターズで、史上最年少での優勝を果たした。
28歳の上地結衣も、東京パラリンピックで自己最高となるシングルス銀メダル、ダブルス銅メダルを獲得した。
国枝はさらなる次世代の育成にも力を入れる。
2月には東京都内で、車いすテニスプレーヤーの眞田卓や齋田悟司らと共に、全国から集まった12歳から22歳の次世代を担う若手選手14人を指導。
7月にはイギリスで、9歳から19歳の参加者たちとボールを打ち合いアドバイスした。
さらには、小さな子どもでも使える競技用車いすの監修も手掛けている。国枝自身の経験が、こうした活動への思いにつながっている。
「僕自身、高校生のころに『何か一つ胸を張れるものがほしい』と思った経験があります。そのときに、車いすテニスを突き詰めてやっていく決意をしました」
「目標や夢を持つことの強さを、身を持って実感している。それを多くの子どもたちに伝えていけたらいいなと思います」
選手として、先駆者として、国枝の挑戦は終わらない。