なかなか、表情はうかがえない。
競技の最中、観客には常に背を向ける。
ノースリーブのウエアに、ハーフパンツ。上腕と前腕の隆起が、スポットライトで余計に際立つ。
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傾斜角90度超の壁をよじ登る厳しさは、時に溢れ出る感情から推し量れる。
"地上"で涼しげだった原田海の表情も、一変する。
壁の最頂部にある「ゴール地点」に手で触れた瞬間、命綱に体重を預け、大の字で体をのけ反らせて喜んだ。手足の踏ん張りがきかずにあと一歩のところで落下すると、悔しさを押し込めて苦笑した。
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ふと背後の観客席を見やり、手招きするしぐさで声援をあおる場面もあった。
「応援が少ないなって」
にやっと笑う20歳には、大舞台の気負いなんて縁遠いようだった。
「悔しい」の真意
8月、東京・八王子の体育館「エスフォルタアリーナ八王子」。
会場内は薄暗く、重低音がきいたヒップホップがBGMで流れる。反り立つ壁には、極彩色のプロジェクションマッピングが映し出されていた。
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ライブ会場のような空間は、選手たちが己の身一つで世界一を競う舞台。
2020年東京への切符がかかったクライミング世界選手権で、原田は敗れた。
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結果は総合4位だった。
優勝したのは、日本のエースと呼ばれる23歳の楢崎智亜(TEAM au)。「7位以内に入った日本人選手の最上位」という条件を満たし、最大2人が選ばれる五輪代表の座を真っ先に射止めた。
日本人2番手だった原田は試合後、「悔しい」とは言った。
だが、代表を勝ち取れなかったからーーという理由づけには、素直にうなずけなかった。
「自分のパフォーマンスを発揮できなかったのが一番悔しい。(大会期間中)毎日言っていますが、本当に順位は気にしてないんで」
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かたくなにも映る姿勢は、競技の"好き嫌い"にも顕著に現れる。
苦手を補うよりも
一般に耳にすることも多い「ボルダリング」は、スポーツクライミングの1種目。ほかに「スピード」「リード」があり、五輪ではこの3つの成績を合わせた「複合」で競う。
15メートルの高さに到達するタイムを競う「スピード」。登るルートは世界共通で、瞬発力や身体能力がものをいう。トップ選手ともなると5秒台半ばを記録する。
原田は、世界選手権で自己ベストを更新する6秒348を記録し、この種目では3位に。最も苦手とする種目で伸びしろを見せたが、自身はあっけらかんとして言う。
「スピードに価値は感じていないので。これを機に練習を増やそうとは思わない。やっていて、そんなに面白くないと僕は思う」
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苦手を補うより、得意を極める。
残りの2種目こそが、クライマー心を躍らせてくれる。
頭上の、2メートル弱は離れたホールド(突起物)に向かい、反動をつけて一気に飛びついてみせた。
自身が得意とする「ランジ」という大技。
「これくらいは簡単ですよ。もっと小さいホールドをつかみにいくことの方が多いですし」
高さ5メートルほどの壁に設定された複数の課題を、制限時間内でいくつ登り切れるかを競う「ボルダリング」。
一つとして同じものはない課題を即座に攻略する技術や、発想の柔軟性が求められる。
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高さ12メートル以上の壁を、制限時間内にどこまで高く登れるかを競うのが「リード」。
持久力はもちろん、ペース配分を考える戦略性も欠かせない。
大会では他選手の挑戦を見ることはできない。登り始める直前に初めて壁を観察し、手順を想定してからスタートする。
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「まったく同じことがないので、そこが難しい部分でもあり、特有の面白い部分でもあるんです」
そう言って目を輝かすさまは、テレビゲームで次々とステージをクリアして喜ぶ少年のようだ。
"つかむ"より"引っ掛ける"
ゆるいパーマをかけたミディアムヘアに、印象的なくっきり二重。中性的な顔立ちは、ふらっと街を歩いているだけでも目を引く。
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自転車で追い越していった年配の女性が、ふと振り返って話しかけてきた。
「モデルさんかね?」
抜群の笑顔で、「いえ」と返した。
国内の選手と比べても小柄な169センチ、56キロ。体脂肪率はわずか3%。
私服姿だときゃしゃにも見えるが、血管の浮き出る前腕がクライマーの印。「ロンTを買うとき、前腕が入らなくてよく諦めます」。握力は優に60キロを超えるが、筋力さえあれば登れるわけではない。
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「感覚的には、手で『つかむ』というより、指で『引っ掛ける』という方が近いですね。基本、ここから先しか使っていないので」
原田が、手のひらに視線を落とす。
左右とも親指以外、指の腹に薄赤く内出血している点がある。
"ここから先"とは、指先1センチの部分。
クライミングには、筋肉と骨を結びつける「腱」の強さが不可欠で、時には片手の指先だけに全体重がかかることもある。
ホールドをつかむ数ミリの誤差で力の伝わり方も変わり、登るか落ちるかの「生死」を分ける。見た目には分かりづらい極限の戦いだからこそ、たとえ練習であっても、難しい課題を攻略したときは身震いするほどうれしい。
「めちゃくちゃ気持ちいいですよ。サイコーです、もう」
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クライミングと出会った10年前から、その快感は一向に変わらない。
反復練習、性に合わず
大きな世界へと飛び立っていけるように、広い心を持ってほしいとの思いが込められた「海」の名。だんじり祭で有名な大阪・岸和田で生まれ育った。
小学5年のころ、何気なく母の敬子さんに連れられて近所のクライミングジムに行き、あっという間にとりこになった。自由にルートや手順を変えながら、時間を忘れて登った。
小学校から中学校にかけてサッカーやテニス、バスケ、陸上もかじった。だが、初心者が必ず通る地道な基礎練習の反復が、どうしても性に合わなかった。
「ずっと同じ動作とか練習をするのは好きじゃなくて…。嫌なことを我慢して続けることに、意味はあるのかなって思っちゃうタイプなんです」
その分、好きなことにはとことん。「今以上にストイックだったかもしれない」と少年時代を懐かしむ。高校生になって初めてクライミングの競技会に出たころには、すでに世代のトップクラスに。
体格で劣る原田が生きる道は、やはり「1センチ」だった。
「指先の握る力は誰にも負けないと思っている」
原点は、少年時代から通い続けたクライミングジム。施設の老朽化もあり、登る際につかむホールドは劣化して表面がつるつるの状態だった。
それを夢中になってつかもうと苦戦した日々が、指の力を養った。原田はそう確信する。
高校時代から日本代表を経験。視野を世界へと広げていったころ、周囲のクライマーたちの目の色が変わるニュースが飛び込んできた。
2016年夏、東京五輪で新種目としての採用が決定。
起きぬけに母から「今テレビでやっていたよ」と聞いた原田だったが、どこか人ごとだった。
「自分が関わるなんて思ってなかったんで」
それから3年。
国内で一、二を争う選手に成長し、2枠ある五輪切符は手の届くところにある。
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メディアに露出する機会も増えた。
自身の立場も、周囲の環境も、あと1年を切った五輪とは切っても切り離せないのは分かっているが、どうしても違和感がある。
「『五輪のために』練習をしたり、大会に出たりするというのは、僕は違うと思うんです」
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世界が熱狂する、4年に1度の夢の祭典。ましてや自国開催。
人生を賭すアスリートだっているだろう。出場できるか否かで、その後の身の振り方が一変することだってある。
原田の考え方は異質か。
アスリートとしての熱量不足か。
答えにたどりつくヒントは、クライミングという"新時代のスポーツ"との関わりにある。
スポーツの「あるべき姿」
ある日は都内、またある日は横浜市内。
原田は主に3カ所のクライミングジムを日替わりのように転戦して汗を流す。
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「一般客として使用料金を払って、自分が登りたい場所で練習します」
コーチはいない。自ら1日の予定を立て、練習メニューを組み、うまく登れなければ解決できるまで1人で悩む。
「コーチがいてほしいなって思うときもありますよ。1人でやってきて苦しい時期もあった。でも、結果が出たときの達成感は、人に言われてやったときと比べて全然違うと思う」
1年前からはトレーニングの一環で「マシンピラティス」も続ける。週2回、関節の可動域や左右のバランスを意識しながら体と対話する。
ウエートトレーニングは一切しない。よりしなやかで効率的な動きを追求した結果、この1年間まったく故障していない。
誰かに言われたわけでなく、自らが欲するものを考え、納得した上で取り入れる。
「人に決められたことばかりやっても楽しくないでしょ。僕は好きでやっているだけなんで」
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スポーツクライミング、スケートボード、BMXフリースタイル…。
東京五輪で初開催される競技や種目の多くは、都市の中で楽しめる「アーバンスポーツ」と呼ばれる。
サーフィンも含め、若者人気を取り込もうという潮流は加速する。
「アーバンスポーツこそが、本来のスポーツの姿なのかもしれない。やっている人たちにとっては、ライフスタイルそのものなのだから」
現在日本で唯一の国際オリンピック委員会(IOC)委員を務め、国際体操連盟会長でもある渡辺守成氏は言う。
対して、従来のスポーツの数々を「トラディショナルスポーツ」と呼ぶ。
体操という伝統の世界で生き、現在は「日本アーバンスポーツ支援協議会」の会長も務めるIOC委員の目には「トラディショナル」こそ異質に映る。
「選手にとって五輪が絶対的な頂点にあり、強くなるためにコーチに懸命に従う。中学や高校で結果が出なかったら辞めていく。コーチの指導が嫌になって辞めることだってある。これは、あるべき姿ではない」
クラブや部活動に所属し、指導を受ける。そんな当たり前のように思ってきたスポーツの土壌が、アーバンスポーツにはほとんどない。
練習の時間も中身も自分次第。ネット上の動画が"指導者"になることも少なくない。
「アーバンスポーツは遊びの延長。それでいい。サーフィンをする人は、きっと死ぬまでサーフィンをやっている」
渡辺氏の言葉に、原田の競技人生も重なる。
涙するほどの「執着心」
だから、登る理由にゴールは定められていない。
「全然見えてこない理想像を、ひたすら追い求めてやっている感じです」
その理想に近づくための手段が、五輪。
「出ることで得るものは絶対ある」。残るは1枠。
現在、代表選考基準の解釈を巡って国際連盟と日本協会の間で混乱が生じている状況。新たな解釈では、世界選手権で日本人2番手だった原田はすでに代表内定となる。
一方、従来通りであれば2020年5月の国内大会で代表が決まる予定だが、どちらに転んでも心は乱れない。
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まずは今回の世界選手権を省みる。
「五輪ではなく、楽しいというモチベーションでやっている以上、もっと登り切るという執着心を持たないと戦ってはいけない」
執着心。
1年前の同じ舞台で、思い当たる節があった。
2018年9月、オーストリアで行われた世界選手権。初出場した原田は、ボルダリング種目でいきなり優勝を飾った。
4つの課題を「完登」。最後に頂点のホールドを両手でつかんだ瞬間、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。
「あれがどんな感情からきたものかは今でも分かりません。でも今年の世界選手権と比べて、登り切ってやるという気持ちは強かったと思う」
失うものはない。ライバルや成績を気にせず、ただ純粋に難題へと必死にしがみついた結果だった。
翻って、今大会はどうか。
周囲の注目、重圧、五輪切符のチャンス…。無意識のうちに自らの足かせとなっていたのかもしれない。
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「練習で難しい課題を登っている時に『もうダメだ』って思っても、最近は意外と頑張れることが多い。それって、世界選手権前の練習ではいかに頑張れていなかったかということ。やっぱり執着心がなかったんですよね」
余計な欲は捨てた。
1カ月後の9月、スロベニアで開かれたワールドカップ第4戦のリード種目で初めて2位に。10月には、海や砂浜を舞台にした「世界ビーチ大会」でボルダリング種目の頂点に立った。
敗北を挫折と捉えるか、成長の糧として生かすかーー。
原田が無邪気に言う。
「伸びしろがあって面白いじゃないですか」
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混じり気のない求道心と、抑えきれない好奇心。彼の大きな瞳には、東京の壁はどう映るだろうか。
【取材・文 : 小西亮(LINE NEWS編集部)、写真・動画 : 江草直人】