「それで、君はいつ、監督になるんだ」
12月23日、サラエボ市内のホテル。10年ぶりの再会を懐かしむ阿部勇樹に、イビチャ・オシムさんはこう投げかけた。かたわらのアシマ夫人が、遠い目をして言った。
「イワン(オシムさん)は38歳の時、お医者さんにひざの手術が必要だと言われて引退したわ。それでサラエボに戻って、監督を始めたの」
阿部も今年、37歳になる。オシムさんが続ける。
「君もいつでも、そういうチェンジができるように、準備をしたほうがいい」
いよいよ、話が熱を帯びる。そう感じたアシマ夫人が、ペットボトルの水を差し出した。10年前、夫が脳梗塞で倒れてから、ほぼ習慣になっている。
それを制して、オシムさんが語り出す。

※前編の模様はこちらから「阿部勇樹、イビチャ・オシムに会いに行く。(前編)」

監督になるための「いい準備」──

指導者ライセンスはどうするんだ。

講習は始めています。ユース世代の子どもたちに教えるところから、です。

子どもへのトレーニングはとても大事だ。それは子どもたちにとってもそうだし、教える側にとってもそうだ。

教える側にも、ですか。

飛び抜けてうまい子どもがいても、それに目がくらんではいけない。サッカーはこれからも、世界全体でスピードアップしていく。現在よりも速いプレースピードに適応できるか。そういう観点で、子どもの適性をはかれるようでないと。


未来のサッカーがどうなるかをいつも考えておく、ということですね。指導者自身が。

そして、ライセンスの講習だけで終わってはいけない。毎日の練習や試合でも、今までと違う角度から同僚や相手のプレーを見るようにする。そして「自分が監督なら、今の自分に何を要求するだろうか」と想像しながら練習をすることも、監督になるためのいい準備になる。

なるほど。

参考までに言うと、ジェフの監督当時、阿部という選手がいた。よく練習をする選手だったが、監督としてはもっと左足の練習や、トラップやシュートの練習をきちんとしてほしいと、ずっと思っていた。

うっ…。す、すいません(苦笑い)。


そうしたら、その選手はあと100ゴールは決められたんじゃないか(笑い)。いずれにしても、そういう角度から自分のプレーや練習の仕方などを振り返ってみるのも、監督になる準備のひとつだ。それから…クラシコはどうなった?

バルセロナ対レアル・マドリード、今日でしたよね。

ここに来るために、前半だけしか見れなかったな。

なんかすごく申し訳ないです(苦笑い)。

そういう試合を見るときも、監督の視点を持つことだ。何か完全な戦術というものがあって、それさえやり遂げればバルサにもレアルにも勝てる、ということはない。どちらのチームの監督も、対戦のたびに相手の現状をよく分析して、対策を練っている。

「オシムの戦術」などなかった ──

それは千葉当時も、監督のお仕事ぶりから感じるところがありました。単純に「戦術」と表現するのは、ちょっと違うなと。

きちんと次の試合の相手のことを研究して、分析して、対策を準備する。それが監督の最低限の仕事だ。その積み重ねが、戦術のように見える。

分かります。「自分たちのサッカーができれば勝てる」という選手のコメントに、いつも腹を立てていらっしゃいました(笑い)。相手へのリスペクトがあまりにも足りない発言だ、と。

当時は「オシムの戦術」などという書き方をする新聞記者もいたな。そんなもの、どこかにあったのか?

そういえば僕、オシムさんと会うというのに、ランニングシューズ持って来なかったんですよね…。反省してます(笑い)。

サラエボは坂が多いから、いいトレーニングになるのにな(笑い)。
── まだまだ走る意欲がある36歳の阿部選手に、監督になることを今から考えろとおっしゃる。21歳とまだ若かった阿部選手をジェフの主将に抜てきした当時に重なります。

当時は事情があった。われこそは次の主将、と思っているベテランが何人かいて、誰を主将にしてもうまくいきそうになかった。だから阿部を主将にして、若い弟を支えるために一丸になろう、という機運をつくりたかった。

誰を主将にしたらうまくいく、などという法則はない。ただ、阿部を主将にしてみて改めて思ったのは「生まれついての指導者」というキャラクターを持つ選手もいる、ということだ。
いい指導者になれるタイプの主将 ──

誰かに何か指示を出すまでもなく、プレーし、戦うことによって、みんなが見習い、チームがまとまる。そういうタイプの主将もいる。阿部に期待していたのは、言葉じゃなく、ファイトすること。つまり、いつも全力でプレーをする。全力でやるのが、主将の最低限の条件だ。

主将のプレーぶりが、チーム全体のレベルを決めるところもある。そしてその次のステップは、次の試合の相手がどんなチームか、主将は主将で分析し、対策を立てるということだ。

それは、自然とやるようになったかもしれません。結果的に監督になる準備にもなっている、ということですかね。

いい主将だから、必ずいい監督になれると決まっているわけではない。どんなタイプの主将なのかによって、いい指導者になれるかどうかが分かれる。阿部は主将として、いつも味方のミスを帳消しにするプレーができていた。それが大事なんだ。

(静かにうなずく)

しかし主将の影響力と、監督の影響力は、チームにとってはまったく違うものだから、混同すべきではない。そこを間違って、監督として全部指示して、独裁的にやるようになる例もある。

なんとなく、分かります。

もう一点。多くの監督が、ナンバーワンは自分だと思っているが、それは間違い。プレーをするのは選手。点が入ったら選手もスタッフもみんな飛び上がって喜ぶが、監督はその中のひとりでしかない。


そういう意味でも、阿部は監督に向いていると思っている。自分がやっているプレーを、自分のチームの選手にやらせることができれば、いい監督になれる。ジェフやレッズの選手たちは、阿部がいい監督になれると確信しているはずだ。

あとは、服装と髪型ね、監督に大事なのは(笑い)。

服装で言えば、ジェフにはGKの櫛野がいただろう。あいつの終盤の失点でよく勝ち点を落としたが、それよりも印象に残っているのは服装だ。

チェーンが好きだったわね。あの子は(笑い)。

ああ、確かに(笑い)。ベルトあたりにつけまくってました。

どこかから脱獄してきたのかと思ったぞ(笑い)。


対談を終えたオシムさんは、当然のように「行くぞ」と手招きした。旧市街。行きつけの店を、阿部のために予約していた。
席につくなり、ラキアという地元の蒸留酒が全員に回ってきた。「え、監督の前で酒?」。
思わず「監督」と言ってしまった。千葉時代に戻ったように、阿部が縮こまる。


なんだ、私は選手に「酒を飲むな」なんて言ったことはないぞ。そんなことを言うと、かえって隠れてビールを飲んだりするんだ。それよりも…。

はい。次の日の練習のキツさを思うと、酒なんて飲もうなんて思えませんでした(苦笑い)。

そういうことだな。そして、今はオフシーズンだ(グラスを掲げる)。

今夜の酒は、すごく回る気がします。




代表監督を退いて、日本を離れる時のことを思い出す。君も空港まで来てくれた。たくさんのサポーターもいたな。

そうですね…。

飛行機が飛ばなければいい。あの時は、本当にそう思ったよ。

別れの時。阿部はオシムさんの手を取り、帰りのワゴン車の後部座席に導いた。オシムさんが阿部の手を握る。

できるだけ早く、精密検査を受けるといい。現役生活が長ければ、知らないうちに身体に欠陥が生じていることがある。心臓とかな。

はい。

監督になれば、重圧もあるからな。きちんと調べたほうがいい。それで問題がなければ、まずは全力でプレーしなさい。近未来のサッカーがどうなるかを想像しながら。周囲をよく観察しながら。そうすれば、いずれいい指導者になれる。

分かりました。

今回は来てくれてありがとう。ただ、サプライズは一度きりじゃなくたっていいんだぞ。

はい!お元気で。


「濃密過ぎる時間でしたね」。ポツリと言う。
現地時間25日午前0時過ぎ、帰路の経由地ドーハ国際空港。
メインロビーの片隅、バーのカウンターに、阿部の背中があった。
周囲には、誰もいない。同行者は空港内のホテルの部屋で、仮眠をとっている。
阿部はひとり、バーのモニターに見入っていた。プレミアリーグの試合映像。手元ではワインのグラスが、口をつけられることもなく水滴をまとっている。

「また、いい報告をするためにも、がんばらないと。遠くからですけど、見ていてくれますから」
オシムさんが脳梗塞で倒れなければ―。日本サッカー界最大の「たられば」を、阿部も思わないわけではなかった。
しかし、これからは違う。バトンを託された身だ。走るしかない。全力で。
「そろそろ搭乗時刻ですかね」
力強く立ち上がる。ファイナルコールが、遠くから聞こえてきた。


イビチャ・オシム氏
1941年5月6日、サラエボ生まれ。現役時代はフランスでプレーし、ユーゴスラビア代表として東京五輪にも出場。78年に引退し、監督に転身。86年からユーゴスラビア代表の指揮を執り、90年W杯で8強。03年にJ1市原(現・千葉)の監督に就任。06年に日本代表の監督に就いたが、07年11月に脳梗塞で倒れて、後に退任。現在はボスニア・ヘルツェゴビナのサッカー連盟名誉会長、ジェリェズニチャルの名誉会長などに就いている。

阿部勇樹選手
1981年9月6日、千葉県生まれ。下部組織を経て市原に入団し、98年に当時最年少記録の16歳333日でJ1デビュー。2007年に浦和に移籍。日本代表として出場した10年W杯では、中盤の守備の要として決勝トーナメント進出に大きく貢献。大会後にレスターに移籍。12年から再び浦和でプレーする。
(取材協力・千田善 取材、文・塩畑大輔 撮影・松本洸 動画編集・和泉達也 編集・LINE NEWS編集部)