「震災がなければ、私は役者になっていなかった」と語る、富田望生。
福島県いわき市で東日本大震災に遭遇したとき、彼女はまだ小学5年生だった。
ほどなくして福島第一原子力発電所で事故が発生。
テレビに映し出された水素爆発の様子を見つめる大人たちが「…もうダメだ」と諦めたようにつぶやいていたことをよく覚えている。
母が下した、福島からの避難という苦渋の選択。
生まれ育ったいわきを離れることに耐えられず「行きたくない!」と泣き叫び、大声で叱られた。
震災と原発事故に振り回され、故郷から逃げたという後ろめたさに苦しみ続けた10代のあの日々。
必死に探し求め、やっと見つかった「東京にいる理由」は、役者への道だった。
すぐに揺れは大きくなり、必死でドアを押さえていた男子はいとも簡単にふっ飛ばされた。
教室にあったストーブが倒れ、窓ガラスに一斉にヒビが入る。
「まるでジェットコースターに乗っているようでした。そして揺れが収まって、担任の先生が先導して下校することになったんですけど、とにかくみんなずっと無言でしたね」
「あんたがしっかりしないと、誰がひいおばあちゃんを守るのよ!」
担任教師は、泣く富田を𠮟りつけた。
「今思うと、あの状況では『きっと大丈夫だよ』と慰めるのではなく、あえて叱って奮い立たせるしかなかったんだろうなと…」
やがて、道の真ん中に椅子を出して、飼い犬と座っている曾祖母の姿が見えた。
「もともとご近所付き合いがある地域だったから、ご近所さんがひいおばあちゃんを避難させてくれたり、ガス栓を閉めたり、いろいろ手伝ってくれていたんです」
その夜、富田と曾祖母は向かいの家に泊まらせてもらえることになったが、震災の影響で電話が通じず、勤務中の母とは連絡がつかない。
「母はホテル支配人としての責任があるし、ご近所の皆さんがどんな人たちか分かっていたから、娘たちはきっと安全な場所にいるはずだと信じて、宿泊客の対応をしていました」
震災当日の夜はとても寒く、そして長く感じられたという。
「電気もガスも水道も止まり、真っ暗な中、ろうそくを一本立てて、余震が起きるたびに火事になると怖いから消して。またつけて…の繰り返しを一晩中していました」
気づけば、雪がちらつき始めた。ただ、いつもの雪とは様子が違う。
「白じゃなくて、泥混じりのような黒っぽい雪だったんです。なんでこんな変な色の雪が降っているんだろう?って思っていました」
ホテルの一階に入っていたレストランのシェフとともに、富田も炊き出しを手伝った。
「職場での母の姿はよく見ていたので、自然と手伝う感じになりました。その後は学校の授業もなくなったので、かろうじて電気だけは使えていたホテルにいたんです」
ほどなくして、つけっぱなしのテレビからニュースが飛び込んでくる。いわき市中心部から約40キロメートルの距離にある福島第一原発で水素爆発が起きたのだ。
その時、一人の子どもとして見ていた景色を、富田はこう振り返る。
「大人たちがみんな『もうダメだね』とか『あ〜、これ終わったね』とか、口にしているのを、私はじーっと見ていました」
「動揺するわけでもなく、現実感がなくてボーッとしているような感じでしたね」
「映画の中で見かける、ゾンビに囲まれて身動きが取れなくなった状況に陥ったような感覚でした」
この場で、もし一人でも気持ちがはじけたら、取り返しのつかないことになってしまう。そう感じた富田は、努めておとなしくふるまった。
「重たくて張り詰めた空気なんですけど、『もうダメだ』とみんな諦めて悟っているような様子で…」
「それを私も子どもながらに悟るみたいな感じ。まさかそんな近くに、爆発してはいけないものがあるとは知りませんでした」
やがて宿泊客たちは帰宅していき、10日ほどですべて見送ることができた。責任を果たした母は、周囲の説得もあり、いわきからの避難を考えるようになる。
「ホテルの社長から『いわきは当分営業できないし、関東に避難してきたらどうか?』と話があったんです。関東に住んで、系列のホテルで働けばいいと…」
自宅は半壊し、物資は枯渇していく。原発もこの先、何が起きてもおかしくない。
「娘の健康を第一に考えた母に、『とりあえず落ち着くまでだから!行くよ!』って言われたんです。震災から2週間ほど経ったくらいの出来事でした」
「いやだ!行きたくない!避難するくらいだったら、私はここでもう死ぬ!」と、助手席で泣きわめいたのだ。
「震災当日に先生に叱られてからずっと冷静だったんですけど、いざ、いわきを離れるとなると、もう二度と戻れない気がしたんです」
とはいえ、母の決意は固かった。
「母はいろいろと悩んだ末に、これがベストだと決めたと思うんです」
「普段あまり叱らない母なんですけど、この時ばかりは『静かにしなさい!』って、ものすごく大きな声で叱られました」
高速道路は封鎖されており、ガソリンの入手にも苦労しながら、下道を走っていった。
最終目的地の神奈川県まで26時間か36時間…とにかく「6」のつく時間がかかった、と富田は記憶している。
「ヘトヘトになって神奈川県に着いたら、『大変だったねえ』とか『ずっとここにいていいのよ』という、観光で行ったときとは違う迎えられ方をして、やっぱり今すごいことが起きているんだな…という実感が湧きました」
その後、自炊可能なミニキッチン付きの東京のホテルへ移動。ほどなく母も系列ホテルで働き始め、生活の基盤ができあがっていく。
いよいよ東京の学校へ転校しなければならない。しかし結局、富田の小学校から福島県外へ避難した生徒は、彼女以外に1〜2名しかいなかった。
「嫌でしたねえ…。なんで?って。ここに住めるじゃん?って。いわきはそれほど放射線の影響も受けなかったし、学校の周りも津波の被害はありませんでした」
2011年4月中旬。ようやく自由参加形式で開かれることになった、いわきの小学校の始業式に富田の姿があった。先生の口から生徒に対して、東京へ転校することが告げられる。
「ボロボロ泣きながら、『すぐ帰ってくるし』と強がっていましたね。東京にずっといる気はまったくなかったので…」
「だけど、なかなかいわきに帰れるめども立たず、『いつ帰れるの?』が口癖になりました」
何回、母に「帰りたい」と言っただろうか。
「困らせているのは分かっていましたが、自分が何かいけないことをしているという感覚がすごく強くて…」
娘の気持ちは母も痛いほど感じている。だから、こんな計らいをしてくれた。
「卒業式の10日前かな?もう一回いわきに転校しなおして、元の学校で卒業させてくれたのですが、その代わりに『中学はもう東京だよ。それが約束だよ』と言われました」
「だけど私は『何が分かってそう言っているんだ?』と、みんなの言葉を裏返して受け取るようになってしまったんです」
「人を信じられない時期が長く続きました。それが原因で東京の友達とぶつかることもあったし、いわきの友達とぶつかることもありました」
東京の子たちにとっては「福島から来た子」、一方、いわきの子たちにとっては「東京へ行ってしまった子」。中ぶらりんな立場に苦しんだ。
「今いる場所になじめないし、帰れる場所もない。誰と仲良くして、誰との未来を楽しんだらいいのか分からなくなって、いわきにいたときは大好きだったピアノにも打ち込めなくなってしまって…」
現実から離れられる、何か没頭できるものがほしい。けれど、それがなかなか見つからない。
そんなある日、母の携帯をいじっていた富田はついに「これだ!」と思えるものを見つける。
「『タレント養成所』の広告だったんです。これはいわきではできなかったこと、東京にいるからできることなんだ!と期待が広がって、母に内緒ですぐさま応募しました」
やっと見つけた"東京にいる理由"。探していたのはこれだった。
「私はそれがほしかったんです。"逃げた"じゃなくて、これがあるから帰れないとか、これを見つけたから私は東京にいるんだ!っていう理由が」
養成所でレッスンを受け、役名のないエキストラから、役者としてのキャリアが始まった。転機が訪れたのは、それから丸2年後のことだ。
「中学3年生になってすぐ、映画『ソロモンの偽証』のオーディションを受けました」
「どれだけの規模感なのかも分からず、『富田望生です!よろしくお願いします!』とカチコチになりながら飛び込んだんです」
予想外にも、オーディション会場はリラックスした雰囲気。プロデューサーにも「オーディションだと思わないで!座ってお話しよう」と気さくに声をかけられたという。
「『あえいうえおあお』とか発声練習を披露するつもりが、『いわき出身なんだよね? 地震のときどうだった?』とか『どういう家族なの?』とか、生い立ちを聞かれました」
最終的に、富田はおよそ1万人の応募者の中から見事、「浅井松子」役に選ばれた。そこから止まっていた富田の人生が、再び音を立てて回り始める。
「楽しい楽しいの高速回転の日々で、人生を取り戻しているような感じでした(笑)。そして公開3日後に成島出監督に誘われて、いわきの映画館へ舞台あいさつに行ったんです」
「ちっちゃい映画館なんですけど、客席の半分以上が私の知り合いで(笑)。そして成島監督がこうあいさつしてくれたんです」
「『この子は、この役と、この作品と、ここで出会った仲間と、そして役者という仕事に出会うために福島を離れる運命だったから、ぜひとも応援してやってください』って」
監督の言葉を隣で聞いた富田は、すべてが報われた思いだったと振り返る。
「『あ〜、そういうことだったんだな』ってようやく思えました」
「震災がなかったら、まずお芝居の世界に行こうなんて思わなかったし、私は『いわきが故郷です』って言っていいんだなって」
「私は、いわきのそういう姿を伝えていきたい。そしていわきに足を運んでくれる方が少しでも増えてくれたらいいなと…」
今でも年に3〜4回は帰郷する。東京に戻る直前にいわき駅前で食べる「鳳翔のエビチリそば」がいつもの楽しみなのだそうだ。
「ご飯もお魚も野菜もおいしいし、人も温かいし、観光で楽しめる場所もたくさんあります。ただ、2泊3日くらいで来てください。いわき市って皆さんの想像以上にめちゃめちゃ広いので(笑)」
最後にあの日、関東へ向かう車に乗っていた自分に、もし何か言えるとしたら?と聞いてみた。
「う〜ん、『耐えなさい』かな。泣くなとも言わないし、我慢しろとも言わないけど、耐えたら、その先にちゃんと待っているものがあるから…」
そう言い残した富田。23歳になり、すっかりたくましくなった彼女は、きっとお母さんに似てきているのだろう。
INFO
東日本大震災から12年。あの時を忘れないために、教訓や学びを次代につなげていくために、私たちにできることがあります。