リュックを下ろすのも、移動中につけていたイヤホンを外すのも忘れ、真っ先にスタンド最前列へと歩み寄った。
観客のいない球場に、打球音がよく響く。
練習試合の行方を眺めていた西岡剛の視線が、一段と鋭くなった。白と赤のユニホームを着た背番号52が、打席に入った。
際どい球に、見逃し三振。西岡は軽く息を吐き、体をのけ反らせた。それからも何度か訪れた打席を、スタンドから腕組みしながら見入った。
試合後、許可を得てベンチ裏のロッカーを訪ねる。程なく互いに姿を見つけると、途端に表情が緩んだ。
「你好嗎?(元気?)」
中国語であいさつを交わし、固く抱き合う。「わー来たね!こんな所まで!」。川﨑宗則がそう驚くのも、無理はなかった。
ここは台湾中部にある斗六球場。
首都の台北市から新幹線「台湾高速鉄道」とタクシーで1時間半あまり。見渡すと田畑も目立つ地方都市で、かつて世界一を経験した「名コンビ」は再会した。
「発展途上」に与える刺激
「可以!可以!(いける!いける!)」
「好球!好球!(いい球!いい球!)」
グラウンドで誰よりも大きな声が響く。20ほども歳の離れた若手の台湾人選手に、簡単な単語で活を入れる。
「まだ若いんやから!これからや!失敗を恐れるな!」。気持ちが高ぶると、つい日本語が出る。
元気印たる姿は、台湾でも変わっていない。
「ムネリン」
その愛称は、野球ファンならずとも親しみがあるかもしれない。快活な人柄とプレースタイルがトレードマークの38歳は昨年7月、台湾のプロ野球チーム「味全ドラゴンズ」に新天地を求めた。
八百長問題が発端で1999年に解散した球団が昨年、約20年ぶりに復活。選手の平均年齢は23歳と若く、今年3月から2軍のリーグ戦に参入する。来年には1軍のリーグ戦に加わる予定になっている。
そんな発展途上のチームは、川﨑を欲した。
「若い選手の手本となり、優しい人柄のおかげでチームの雰囲気もすごくいい。彼は台湾でも有名なので、チームの知名度も一気にアップしました」
球団の呉徳威ゼネラルマネジャーは、加入の効果をそう話す。
野球熱が高い台湾。日本プロ野球の試合も定期的にテレビ放送され、子どもたちは「パワプロ」や「プロ野球スピリッツ」といったゲームに興じて育ってきた。
だから若い選手たちにとってはスター選手。本来なら近寄り難いほどの存在だが、川﨑はいたって自然体で溶け込む。
「ムネサン、ジジイ」
まだ線は細いが、俊足巧打が魅力の20歳の有望選手が、日本語で"イジって"きた。
「なんだってー!」。川﨑は笑いながらグラウンドに駆け出していく。
ほほ笑ましい光景に、西岡は穏やかにつぶやいた。
「やっぱり、ムネさんはいいね」
異国の地での挑戦を選んだ3歳上の"お兄ちゃん"と同じく、自らも岐路に立った1年間だった。
受け入れ難い現実でも…
世間一般が認識する「プロ野球」は、セ・パ両リーグ計12球団による「NPB(日本野球機構)」。その国内最高峰の舞台に、西岡は昨シーズン立つことができなかった。
18年限りで阪神タイガースを戦力外に。若い選手たちがNPB入りを目指してしのぎを削る「独立リーグ」が新天地となった。
元NPB選手が複数在籍する「栃木ゴールデンブレーブス」に加入。妻と2人、初めての土地で暮らし、若手に交じってプレーした。
NPBに比べ、環境面も待遇面も劣る。観客は数百人の時もある。35歳。積み上げて来たまばゆい実績を考えると、受け入れ難い現実にも思える。
「でも、僕の中でまだ『引退』という言葉がしっくりこない。どうせ野球をやるなら最高の場所でやりたいし、NPBを本気で目指すために独立を選んだだけやね」
NPB復帰をかけたアピールの場でもある「12球団合同トライアウト」も2年連続で受けた。諦めが悪いわけではない。
「何かにトライし続けることが、単純に好きなんやと思う」
プロ18年目を迎える20年。新たなシーズンへと臨む前に、どうしてもやっておきたいことがあった。
「オフになったら、ムネさんに会いに行こうって決めててん」
昨年11月。プロ野球界が福岡ソフトバンクホークスの日本一に沸いているころ、西岡はひとり台湾へ飛んだ。
数日間の台湾滞在中、川﨑のオフの日を利用して2人で観光に出掛けた。うまい中華も食べた。
すっかり夜の帳も下りたころ、ワイングラスを鳴らし、ゆっくりと語り合った。
チーターが走ってきた!
「どうだった?」
蒸し鶏のあえ物を頬張りながら、川﨑が自らのプレーについて問う。
西岡は、よどみなく返す。
「光り輝いてたよ、やっぱ」
こうして膝を突き合わせるのは、およそ1年ぶり。西岡がオフを過ごす大阪を川﨑が訪ね、一緒にロードバイクでサイクリングして以来になる。たこ焼きを食べ、道頓堀を眺め、しゃれたカフェで休憩した。
「あの時は気持ち良かったなぁ」
そう口をそろえる2人は、もう出会ってから15年近く経つ。互いが最初に受けた印象は、強烈だった。
西岡が高校野球の名門・大阪桐蔭からドラフト1位で千葉ロッテマリーンズに入団した03年。福岡ダイエーホークス(ソフトバンクの前身)でプロ3年目の川﨑は頭角を現し、チームの日本一に貢献した。
「若くてカッコいい人がいてんなーって。ちょっとロン毛で『ムネリン』の愛称でキャーキャー言われていましたね(笑)」
そう言う西岡は、翌04年の2年目にチームで台頭する。同じパ・リーグで頻繁に対戦していた川﨑は、当時の衝撃を忘れない。
川﨑宗則
(西岡が)ツーベースを打って、バーって走ってきた時に「何!?この選手は!?」って。それがすごい印象的なの。チーターが走ってきたんよ。
西岡剛
ムネさんはずっと俺のことをチーターって(笑)。お前はチーターの目をしてるって言うよね。
川﨑宗則
身長もでかいし、これはいい選手になるなと思って。そしたら次の年(05年)から思った通りよね。チーターだから、子チーターが普通のチーターになっていくという。
予感は当たった。04年に川﨑が手にした盗塁王のタイトルを、05年は西岡がリーグ最年少記録の21歳で獲得。日本一になったロッテをけん引した。
その年のオールスターゲームに共に選出され、一緒に食事に行ったことがきっかけで付き合いは始まる。
プライベートを一緒に過ごすことも多かったが、やっぱり一番は真剣勝負の場で互いを認め、高め合ってきた時間だった。
同じグラウンドでプレーした刺激的な日々を思い出すと、西岡はどうも体がうずいて仕方なかった。
グラウンドで、一緒に
日中は半袖で十分な陽気。軽く汗を拭った西岡が、少年のように笑った。
「あー、ええ運動やー」
トレーニングウエア姿に、左手には日本から持参したグラブ。台湾滞在中、味全ドラゴンズの計らいで、練習に飛び入り参加することになった。
「気持ち良さそうやん?」。川﨑が歩み寄ってベンチの隣に座った。一緒にノックを受け、合間には野球の技術論も交わした。
「ムネさん、剛が来てるから燃えてるで〜!」
また一段と大きな声が、グラウンドに響いた。
若手たちにとって、西岡もまたスターのひとり。ほとんどの選手やコーチからサインや記念写真を求められた。
まだ拙くても、らんらんと目を輝かせてプレーする20歳前後の彼らは、まぶしく見える。目に留まったひとりの選手を呼び止めて言った。
「2、3年後にすごい選手になると思う。でもな、このチームで1番になっても何の意味もないから。もっともっと上を目指せ」
強さは正義。そうやってのし上がってきた。
20代前半にして、球界トップクラスの内野手になった2人。その存在を確固たるものにしたのが、日の丸を背負った06年の死闘だった。
「怖かった」世界一をつかんだ戦い
決勝の瞬間最高視聴率56.0%。
米国で戦う日本代表の姿に、列島が熱狂した。
06年に初めて開催された野球の世界大会「ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)」。2人は「侍ジャパン」の一員として、優勝の原動力となった。
1番・川﨑、2番・西岡、3番・イチロー…。
キューバとの決勝では上位打線を担った。1点リードの9回には、イチローのタイムリーで川﨑がダメ押しの生還。間一髪、右手でホームベースに触れたプレーは「神の右手」と話題にもなった。
大会には、米メジャーリーグのトップ選手たちも参加。「怖かった」。2人は口をそろえて振り返る。
韓国には第1、2ラウンドで2度続けて負ける屈辱も味わいながら、何とか準決勝、決勝と勝ち上がった。「負けた時は日本に帰るのが嫌になる」。当然だが、日の丸は重かった。
大会期間中、移動のバスではいつも隣同士。イヤホンを片耳ずつ分け合い、球場に向かった。戦いの直前とは思えない意外な曲を聴いていたことを、2人はつい最近の出来事のように思い出して笑った。
大会が行われたのは確かに3月だったが、卒業の定番ソング「3月9日」はどうにも不釣り合いだった。
ささいな思い出までも、つい最近のことのように鮮明に思い出す。それほど、色濃い体験だった。
西岡は、あらためてかみ締める。
「すごい戦いしましたね、あれは。僕らの人生にとっても、すごい思い出ですね」
周囲を照らす「ひまわり」
WBCを経て、08年には北京五輪で再び日の丸を背負った。その後、共にメジャーにも挑戦した。
歩んできた軌跡に共通点は多いが、2人に言わせれば「人間的には真逆」。
それぞれにない魅力に引かれ、互いの成長を促してきた。
西岡が持つ動物的な嗅覚に、川﨑はいつも驚かされてきた。
周囲を優しく包み込むような川﨑の清々しさに、西岡は感服しっぱなしだ。「100人いたら100人全員から好かれるのがムネさん」とも言う。
互いを例えるなら「直感力のチーター」と「周囲を照らすひまわり」。
30代も半ばに差し掛かった時、チーターの足は壊れ、ひまわりはしおれかけた。
西岡は16年の試合中、ヒットを打って走っている際に左アキレス腱(けん)を断裂。一塁ベース付近でうつぶせに倒れ込んだまま立ち上がれず、涙がにじんだ。選手生命を脅かす大けがに、心が折れた。
「あー、もう俺、引退なんやなって」
川﨑も18年、体調不良に苦しみ、一部メディアでは「引退」と報じられた。球団と話し合いの末、そのままソフトバンクを退団。一度、野球から遠ざかった。
ユニホームを脱ぐという未来が、すぐ目の前にある。たとえ、その選択をしても、誰も責めなかった。むしろ、周囲はこれ以上ない花道をつくってくれていたに違いない。
体だって、万全な日は少ない。
西岡は、14年に味方選手と守備中に衝突した影響で首などに神経痛を抱えた。川﨑も台湾で状態が上がらない時期があった。
30歳前後がプロ野球選手の平均寿命と言われる過酷な世界。次、大きな故障をしたらーー。その恐怖も常に抱えている。
そこまでしても、グラウンドに立つ理由。
川﨑がにこりと笑った。
「お互いに、いくところまでいってね。あとはもう、自分のしたい人生なんですよね。誰に文句を言われる必要もなくて。この歳になって、まだ好きなことを追いかけられるほど幸せな人生はないですよ」
その言葉に、西岡は自然とほほ笑む。
川﨑はずっと"道しるべ"のような人だった。
WBCの時も、チーム最年少だった西岡に「剛はそのままいきなさい」と気遣ってくれたからこそ、臆することなく世界に向かっていけた。
NPBに戻れる保証のない独立リーグで過ごす今だってそう。「ムネさんが台湾で野球するっていうのを聞いたから、僕自身も火がついた。『あ、もっとやる気出していかんとアカン』って」
川﨑の姿を見れば、自然と奮い立つ。
だから台湾に行ってでも、ユニホーム姿で野球と向き合う今を、目に焼き付けておきたかった。
一緒に練習した日、西岡はふと思い立って同行カメラマンの機材を借り、ファインダーをのぞき始めた。川﨑にピントを合わせ、シャッターを切る。
薄暗いベンチで、グラウンドに向かって大声を出す姿を切り取った。
「ムネさんがまた野球を始めてくれたことが、すごくうれしい。好きなことを、とにかく続けてほしい」
"相棒"のひまわりが先を照らしてくれれば、チーターはまだ走り続けられる。
「二遊間コンビ」いつかまた
台湾の夜は更けてきた。
場所はどこであれ、2人の野球人生は続く。西岡は、近い将来の夢を打ち明けた。
「いつかは、1年間だけでもいいから、同じユニホームを着られたら、なんか面白いんやろうなっていうのは僕の中で思ってるんですよ」
すかさず川﨑が応えた。
川﨑宗則
ほんとにね、もう一回、二遊間を。
西岡剛
二遊間いける(笑)?
川﨑宗則
意地でもいくがいなー。もう、ここはいくぞぉー!動かない二遊間やけど(笑)。
余念のないケアで、肉体的な下降線を少しでも緩やかにしようと努める日々。西岡は今、若手の誰よりも早く球場に来てウオーミングアップに時間をかける。
圧倒的なセンスと勢いで乗り切ってきた20代のころを省みたからこそ「これからの後悔を少しでも減らしたくて」と強く思う。
「もう遅い」と言う人もいるだろう。確かに、全盛期のような動きはできないかもしれない。
だが、それをもってプロ野球選手としての価値を決めてしまうのは、あまりにも寂しい。
自らを「ジジイ」と表現した川﨑の言葉が、一段と熱を帯びた。
「ジジイの死に物狂いはカッコ悪くない。僕らなりに、僕ららしく、まだまだ走りたい」
グラウンドに立ち続けることこそ、存在証明。
カッコいいプロ野球選手で、あり続けたい。
【取材・文 : 小西亮(LINE NEWS編集部)、写真・動画 : 江草直人】