9月24日午後7時。仙台市の繁華街、国分町の路地裏。
西武の中村剛也は、タクシーの運転手に丁寧に礼を言うと、焼肉店ののれんをくぐった。
「おっ、すいてて、いいですね。行きつけにさせてもらおうかな」
半個室の席に通されると、真っ先にサラダを注文した。
4人分が盛られた洗面器大のボウルから、相手の分を取り分ける。
「あ、別に気を使ってじゃないですから。残りはいただきます」
ボウルを抱えるようにして、3人前を一気に平らげた。
おかわりしてもいいですかね、と追加オーダーも忘れない。
「お礼言って損した、とか思いますよね。僕なら思います」
ニヤリと笑って見せる。
2時間ほど前。
中村は試合を決める一発を放っていた。
楽天生命パーク宮城での、デーゲーム楽天戦。
同点の延長10回表に、楽天5番手の宋家豪からソロ本塁打。チームを9連勝に導いた。
「まあ、あれはよかったんですけど、それより3者連続に続けなかったのがね」
4回表、西武は浅村栄斗、山川穂高、栗山巧が3者連続本塁打。
球場をどよめきが包む中、続く打席に立ったのは、中村だった。
「いやですよね。前のやつがホームラン打っただけでも、いろいろ考えちゃうのに、3連発って」
「3人とも打ったのは直球。じゃあ、次のオレには何で来るのか。すごく悩む。逆に直球かな、とか」
結局、スライダーをひっかけてショートゴロ。
「アグー(山川)とか、よく2者連続とか打ってますけど、そういうやつの気が知れないですよ(笑い)」
「新4番」からの質問
気が知れない。
そう思ったのは、むしろ4番を打つ山川の方だった。
試合後、中村は珍しく山川から質問を受けた。
なぜ、宋のチェンジアップをあそこまで完璧に打てたのか。
「あいつもあの球は念頭に置いているらしいんですけど、打てた試しがないみたいで」
割り切るしかない。
中村はそう答えたという。
「アグーは遅球のタイミングで待ちつつ、速球にも対応するイメージらしいです。でも、宋のチェンジアップはそれで打てる球じゃない」
「割り切って、速球を捨ててチェンジアップ1本に絞る。そのためにも、絞って待てるカウントに持っていく。それしかない」
それにしても、あいつは頑張ってる。
肉を焼きながら、中村はポツリと言った。
「4番なのに打てなくて苦しそうな時期もあったけど、今年は周りも打ってくれますしね。だからこそ今のうちに、割り切って勝負しておくべきなんですよ」
「オレ個人のシーズン最多本塁打記録、48発。そこを何としても超えてほしい。それを一度超えたら、多少悪い時でも過去の4番と比較されなくなる。もっと楽に勝負ができる」
チームがいいうちに実績を
ちょうど10年前の2008年シーズン。
現在の山川より1歳若い25歳の中村は、シーズン46本で初の本塁打王に輝いた。
チームも日本一に導いている。
そこから本塁打王のタイトルを獲得すること、実に6回。
長いプロ野球の歴史の中でも、王貞治の15回、野村克也の9回に次ぐ数字だ。
この10年、中村は球史に残るペースで本塁打を量産してきた。
だが、本人は「楽しかったのは、最初にタイトル取った年だけ」と首を振る。
「その時は、優勝争いの中でのタイトル争いでしたから。それ以外は、そんなに。取れて当然というのも、正直あったので」
さっとあぶる程度、と店員が説明したロースをしっかり焼く。
シーズン中。何気なく、食べるものも気にしている。
「それに、チームがいいときは、4番の仕事も楽なんです。問題は、そうじゃないときです」
4番だけは、おたおたしちゃいけない―
2011年まで、西武の上位には片岡易之、栗山、中島裕之が並んでいた。
いずれも出塁率は高い。中村は塁が埋まっている場面で打席に立つことが多かった。
だがその後、中島、片岡が去ったチームは、上位打線が固められなくなった。
塁があいていれば、最悪、四球でもいい。年々、中村はまともに勝負してもらえなくなった。
「四球ばかりになると、打席でバットを振る機会が減る。それが続いて、反応が悪くなってしまったこともあります」
最初はいらだちを覚えたこともあった。
しかし、自分の一喜一憂が、チームの雰囲気を変えてしまうことに気が付いた。
主砲とは、そういう立場だった。
「4番だけは、最後までおたおたしちゃいけないんですよね。本当にチームが揺らぐ。それも学びました」
四球が続いても、いらいらしてはいけない。
凡退しても、取り乱してはいけない。
淡々と打席を重ねる。
4番としての務めを、真摯(しんし)に果たそうとするからこそだった。
「4番の重責って、やっぱりある。最初に4番に座ったときには分からなかった重責。それを担ってきたという自負はあります」
経験を踏まえて。
山川には「チームがいいうちに実績を」と言う。
いつもの柔和な表情。
しかしその目には、真剣な光が宿る。
もう、今年で引退しよう―
そうして必死に務めて来た4番の仕事。
しかし今季、中村はそこを任されることが、一度もなかった。
春先から、調子がまったく上がらない。
開幕直後には、打順を8番にまで下げられた。
「8番というのは、さすがにガクッと来ました。ずっと張り詰めてやってきたから。正直、気持ちを入れるのは難しかった」
「でも、仕方がないのも分かっていた。状態が上がらなかったから」
打率は1割台中盤をさまよった。
好機で迎えた打席で、バントのサインまで出された。
しかも、そのバントすら決め切れなかった。
ふがいなかった。淡々と打席を重ねてきた男が、思わずバットを地面にたたきつけてしまった。
「結局、守備で左肩をケガして2軍に落ちましたけど、それ以前にまったくダメでした」
「しばらくして1軍に戻ったけど、別に何も改善していなかった。なぜ上げてもらえたんだろうと。当然、打てなかった」
8番どころか、試合自体に出られなくなった。
「同一カード3連戦が終わるたびに、ロッカールームの荷物をきれいにまとめてました。すぐに2軍に戻れるように」
「でも毎回、僕の代わりに、若いやつが2軍に落ちた。申し訳なくなって、自分から2軍落ちを申し出ようと、何度も思った」
肉を焼く手を止めて、力なく笑う。
「でも、言い出せなかった。それも含めて、情けないなと。もう、今年で引退しよう。そう本気で思ってました」
「おかわり、腕を動かせ」
半ば自暴自棄になったときに、ふとあることを思い出した。
「今まで言ってないんですけど、実は2軍にいるとき、上本さんがアドバイスをくれていたんですよ」
中村が心から慕う先輩のひとり、上本達之は昨季限りで引退。
今季から2軍のブルペン捕手を務めている。
ある日、少しためらいつつ、上本はこう声をかけてきたという。
「おかわり、腕を動かしたらええんちゃう?」
構えに入り、投球を待つ間、リズムを取るようにバットを持つ腕を動かしておく。
そんな、技術的なアドバイスだった。
現役時代から苦楽をともにした中村は、上本にとって同僚を超えて「親友」でもある。
助言したい。だが、打撃コーチの職分を侵すべきではない。重々承知していた。
伝えてしまってよいものかー。最後まで悩んだ末のアドバイスだった。
ありがたく思いつつ、しかし中村は受け入れることができなかった。
「動かないのはこだわりでもあったので。そのときは、聞く耳を持てませんでした」
打席の中で身体を動かしながら待った方が、反応はしやすい。
だからこそ、ほとんどの打者は身体のどこかを揺さぶって構える。
中村は違った。
微動だにしない構えから、スッとバットを振り出す。
シンプルさを極めたフォームこそ、中村の代名詞。
不動の構えは「おたおたしない4番」のイメージを体現するものでもあった。
余計な動きは、加えたくなかった。
だが、引退を意識するところまで追い込まれたときに、考えが変わった。
どうせダメなら、やってみるか。
信じられないくらい、バットがスムーズに―
その日、中村は先発を外れていた。
試合前の打撃練習。右肩の前でシェーカーを振るくらい、思い切って腕を動かしてみた。
久々に快音が響いた。
信じられないくらい、バットがスムーズに出るようになった。
「驚きました。ここ数年よくなかったので、他にもいろいろ試しましたけど、あの変化は初めて。だからおそらく、これはいいんだなと」
「若いころは瞬発力があったから、静から動という反応ができた。でももう35歳ですから、同じやり方ではダメ。そういうことだなと」
長年のこだわりを捨てると、眺望が開けた。
先発復帰した試合では、いきなり2本塁打。
7~9月の打率は3割1分9厘。
8月にはリーグタイ記録の6試合連続本塁打も記録し、月間MVPにも輝いた。
ちょうど若手が夏場の優勝争いの中で疲弊し、軒並み調子を落としている時期だった。
入れ替わるように打棒を爆発させ、ソフトバンクや日本ハムの猛追を受けていたチームを救った。
チームが苦しいときに、いかに仕事をするか。
それはまさに、4番としてずっと求められてきたことでもあった。
「その時期に復調したのはたまたま。でも、また打てるようになったこと自体は、たまたまじゃない」
もともと、守備の軽快さや、意外な俊足ぶりなどは、陰りをみせていたわけではない。
「体つきを見て、もう動けないと思われるんでしょうけど、僕は生まれたときから太ってる。この身体で走って、守れるように鍛えてきた。昨日今日のデブとは年季が違うんですよ」
「しばらくは引退を考える必要もない。今はそう確信できてます」
「打ててよかったです」の真意
西武ファンは「あのコメント」が繰り返されるのを、ずっと心待ちにしていた。
「打ててよかったです」
中村がホームランを打った後に残す談話だ。
決まってこのワンフレーズ。何年も続けてきた。
あまりにもそっけない言葉。
打てたらよかったに決まっている。そう揶揄する声もあった。
しかし、長年繰り返すうちに「お約束」として受け入れられるようになった。
でもなぜ、いつも「打ててよかった」なのか。
「最初は正直、シーズンに50本近く打っていたから、いちいち考えていられないというのもありました」
肉がなくなった皿を重ねながら、申し訳なさそうに言う。
「ただ、言い続けるうちに、それは本心でもあるなということに気付いたんです。試合中にホームランを振り返るというのは、自分としてはちょっと違うかなと」
「試合に勝つのが目標で、ホームランは手段。だから、一発の価値が決まるのは、試合の結果が出てからです。談話が世に広まるころには、逆転されていることも、ざらにありますから」
亡き兄貴分にささげる優勝、そして…
シーズンは続く。
午後9時。早々に焼肉店を辞すると、中村はタクシーに乗り込んで宿舎へと戻っていった。
1週間後の9月30日。
西武は日本ハムに敗れたが、2位ソフトバンクの敗戦で優勝が決まった。
10年前と同じ、札幌ドームでの胴上げ。
だがそれ以上に、中村の胸に去来するものがあった。
胴上げの輪の外で、掲げられた背番号89。
昨年急死した、森慎二投手コーチのユニホームだ。
「普通なら投手陣とそんなに絡むことないんですけど、慎二さんは別でした。若いころ、高知の2軍キャンプ中に、急に声をかけられて」
「当時の慎二さんはでかい上に、ロン毛、茶髪で本当に怖くて。近寄らないようにしてたんですが」
「でもメシに誘ってもらって、お前は本当によく食うなと言って、そこからかわいがってもらうようになりました」
努めて淡々と語る。
感情のさざ波を抑えるように。
「いろんなところに連れていってくれた。いろんな話をしてくれた。いろんなことを教わった。亡くなったのは本当にショックでした」
「勝ててよかったです。慎二さんのためにも。それに、みんないい仲間ですから。本塁打王より、チームで勝つことの方が最高です」
優勝の余韻に浸りつつ、中村は言う。
「そろそろ『打ててよかったです』以外のことを言ってやろうかとも思うんですよね」
「『実は去年の対戦で…』くらいから振り返る、超絶長くて、細かい談話を突然出したら、みんなびっくりするでしょう」
サプライズの可能性を匂わせ、ニヤリと笑う。
「ただ、それをやるからには、本当にいい場面じゃないともったいないですよね」
「解禁」は、10年ぶりの日本一を彩るものになるのだろうか。
まずはクライマックスシリーズへ。
中村の戦いは続く。
【取材・撮影・文=塩畑大輔(LINE NEWS編集部)】