楕円(だえん)形に敷かれた周長250メートルの走路を、
次々と自転車が駆け抜けていく。
10月17日、静岡県伊豆市にある自転車トラック競技施設「伊豆ベロドローム」。
この日行われていた代表合宿には、オムニアムで日本女子トラック史上初のワールドカップ(W杯)金メダルを獲得した、梶原悠未の姿があった。
小柄な体格でマシンを自在に操り、鍛え上げられた脚でペダルをこげば、場内にはタイヤの摩擦音が響いた。
午前の練習が終わると、梶原は人懐っこい笑顔をこちらに向けた。
「コーチからめっちゃ怒られちゃいました」
苦笑いしながら話す姿は、至って普通の大学生といった雰囲気だ。
しかし、一度自転車にまたがれば、その表情は一変する。
「自転車に乗ると、トレーニングモードになっちゃうんですよね」
とにかく練習が好きだった。
「ゆっくり走ろうと思ってもついスピードが出ちゃう。気づいたら山登ってることもあります(笑い)」
最近はオンとオフの切り替えの重要性に気づいたというが、それまでは、レースの前日まで自分を追い込んだ。
30キロ程度のレースでは「足りない」ほどだったという。
自転車の話をすると、目をキラキラと輝かせた。
「オムニアム」は、距離やポイント獲得条件などが異なる4種類のレースを走り、合計ポイントで勝敗を競う自転車競技。
梶原選手の母・有里さん提供動画
その魅力について、梶原は「奥深さです」と語った。
相手選手のリサーチや、作戦を立ててイメージトレーニングをすることが好きだという。レース中も頭を使って考えることで、ミスを挽回できることもある。
「その駆け引きが楽しいです」
毎回違うレース展開の中で、頭は常にフル回転させている。高度な心理戦が繰り広げられる点においては、"頭脳の競技"と言えるかもしれない。
自転車を始めてわずか6年。
目標とする五輪は目の前に迫っていた。
順風満帆に見えるアスリート人生だが、実は、梶原には別の競技で五輪を目指していた過去がある。
そこで味わった大きな挫折が、自転車との出会いにつながったという。
小学生時代の梶原は、水泳・ピアノ・習字・書き方・学習塾と5つの習い事に励んでいた。
学業ではほとんどの教科で評価は「5」。
自身の当時の性格については「目立ちたがり屋で負けず嫌いでした」と、はにかみながら振り返った。
中でも熱心に取り組んだのが、幼い頃から習っていたという水泳だった。
保育園の年長で4種目を泳ぐことができたといい、この頃から運動能力の高さは折り紙付きだった。
"先の目標"を作ってあげないといけない、という母・有里さんの考えもあり、小学校2年生からはスクールの選手コースへと進んだ。
本気で水泳に取り組み始めた。
この頃からすでに「五輪」という大きな目標が、親子の頭に浮かんでいた。
しかし、中学3年生の時、梶原の人生を大きく変えてしまう出来事が起きる。
車の中で流した涙
参加標準タイムを出せば、全国大会への出場が決まる県大会。普段通りの結果なら、決して届かない記録ではなかった。
その日は、何かが違った。
わずかにタイムが及ばず、つかみかけたはずの全国への切符は、目前でこぼれ落ちていった。
当時の様子を、有里さんは目を潤ませながら思い出す。
「帰りの車中で悠未に言ったんです。これがターニングポイントかもしれないよって」
2人は車の中で大泣きした。
一番近くで見守ってきた有里さんは、娘の努力が無駄になるのは絶対に嫌だった。
大好きな水泳は続けてもいい。ただ、これまでの経験がつながる"別の道"も探そう。
2人はその場で決意した。
「それで五輪には行けないよ」
水泳に全てをささげてきた梶原にとって、もう一度"新しいスタート"を切ることは簡単ではなかった。
行きたい高校が見つからない。
アスリートになるという夢を諦めきれず、わらにもすがる思いで受けたボートレーサーの試験もうまくいかなかった。
11月、高校を決める時期が迫ったある日。
説明会で訪れた筑波大学附属坂戸高等学校の校門をくぐった瞬間、彼女は母に言った。
「わたし、ここに行きたい」
すぐに2人は"準備"を始めた。
説明会でもらったパンフレットを開きながら、部活紹介のページに目をやった。
最初に梶原の頭にあったのは陸上部だったが、有里さんは頭を縦には振らなかった。
「それで五輪には行けないよ」とハッキリ告げた。
体ひとつで戦う限界を味わった梶原に、また同じ苦しみを味わわせたくなかった。
そうして彼女が選んだのは、自転車競技部だった。
梶原の新たな人生が始まった。
右も左も分からない自転車競技。
最初は転倒の連続だった。
初めて出た高校1年生夏のインターハイでも落車。体中血だらけになった。
落車に対する恐怖は、頭から離れてくれない。
「もう辞めたい」と泣きながらこぼす様子を見ていた有里さんも、「本人が辞めるって言うなら」と覚悟を決めていたという。
しかし梶原は、転んでも、転んでも、また自転車に乗っていた。恐怖心よりも「悔しい」という気持ちが勝っていた。
「落車したままで終わりたくない」
練習も自主的にどんどん厳しく追い込んでいった。5秒、6秒とベストタイムが大きく縮まっていく。
「自分を大きく超えていけるという感覚が楽しかったです」
努力が目に見えて成果につながる喜びを感じていた。
持ち前の運動神経と負けず嫌いの精神で、飛躍的な成長を遂げると、高校1年生が終わる3月の高校選抜大会で3冠を達成。
ジュニアアジア自転車選手権日本代表に選ばれるまでに、急速にステップアップしていった。
大学進学時には、数々の強豪校から声が掛かった。
それでも梶原は自らの意志で、自転車競技部のない筑波大学を選択した。
「誰かに与えられたものではなく、自分に合う環境を自分で作って競技に取り組んでいきたかったんです」
最初は当然不安もあったというが、筑波大学での学びが競技にも生かされているという。
同期のパラカヌー・瀬立モニカ、同じ研究室の先輩でもあるサッカーの猶本光ら、他競技の選手からも大きな刺激を受けている。
W杯の金メダルはスタートライン
そして、2017年12月。
梶原はカナダ・ミルトンで行われたW杯で偉業を成し遂げる。
4種目すべてで1位を獲得する、"完全優勝"だった。
オムニアムで日本勢初となる金メダル。
ゴールの瞬間は両手を天に突き上げた。
「すごくうれしかったです。でも…」
梶原は少し間を置いて、その時の複雑な心境を説明する。
「あくまでもスタートラインに立ったという感覚でした」
梶原にとっては、日本人初の快挙も通過点に過ぎなかった。五輪への道がハッキリと見えた瞬間だった。
2018年10月28日。
再びカナダ・ミルトンに降り立った梶原は、W杯第2戦に出場。
"憧れの存在"だというリオ五輪金メダリストのローラ・ケニーと初対戦を果たす。
結果はケニーが貫禄の優勝。梶原は7位となった。
それでも試合後は「結果を受け止めて次につなげていきたいと思います」と前を向いた。
彼女が見据えているのは、すでに2020年の東京五輪だ。
東京五輪で金メダルを取るには「今より何段階も成長しないといけない」。
それでも「世界レベルに近づいてきている自信はあります」と力を込めた。
ここまでしっかりと残してきたわだちは、自信へと変わっていた。
東京五輪まで2年を切った。
ペダルをこぐ脚に一層の力がこもる。
梶原はゴールへと向かって風を切って突き進んでいる。
"金色"に輝く、光の方に。
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【取材・文=和泉達也(LINE NEWS編集部)、撮影=松本洸(LINE NEWS編集部)】