授業終わりのチャイムが鳴った。
プノンペン市内の小学校。
開け放たれた教室の窓からは、児童が一斉に席を立つ音が漏れ聞こえてくる。
校庭の中央でそれを確認した西武・秋山翔吾外野手は、静かに考え込んでいた。
「ごめんなさい!休み時間の15分しかないです。どうします?」
そんな同行スタッフの悲鳴で、腕組みを解く。
意を決して、周囲に呼び掛けた。
「打ちます。準備してください」
バットを手に取り、足場を固める。ふうっと深く、深呼吸する。
スタッフにトスを促す。硬式球を、渾身(こんしん)のスイングでバッティングネットにたたき込む。
スコール上がりの青空に、澄んだ打球音が響く。
いったい、何事か?制服姿のカンボジア人児童たちが、一斉に振り返った。
暑く、熱い熱帯の街に
時計の針を戻す。
12月10日。カンボジア・プノンペン国際空港。
気温は35度。出国ロビーから屋外に出た秋山は、慌ててパーカーを脱いだ。
「これが東南アジアの暑さですか!」
カンボジアはもとより、東南アジアを訪れること自体が初めてだった。
移動用のバンに乗り込むと、空路の疲れも見せずに、車窓にかじりつく。
空港から市街地への幹線道路は、あっという間に渋滞で埋まる。
バンの周囲は、小型のバイクが埋めた。
「すごいな、4人乗りしてますよ!それに向こうの子は、どう見ても小学生くらいです」
その向こう側には、レクサスの大型SUVばかりが何台も連なっている。
渋滞が解消しだすと、バイクとSUVは一体となり、魚群のように動きだす。
向かう先には、中国資本が建設する、超大型のマンション群。
「すごい勢いで動いていますね。街が」
時代のうねり、熱にあてられ、上気しきった表情でつぶやく。
「BASEBALL FOR THE WORLD」
ホテルに着くと、早速「作戦会議」が始まった。
今回の訪問の目的は観光ではない。
「野球を見たこともない子の方が多いということですよね?」
秋山が再度、スタッフに確認する。
"野球未開の地"と言ってもいい街で、あえて野球教室を行う。
そのために、シーズン最多安打記録保持者は、カンボジアに降り立った。
秋山が所属する西武は、2013年から「LIONS BASEBALL FOR THE WORLD」と題し、東南アジアなどの国への野球振興に取り組んできた。
ファンや選手から使わなくなった野球用品を募り、各国の子供たちに配るという活動だ。
秋山は、この活動に同行したいという意向を、数年前から持っていた。
今年の1月には、オフの渡航の意思を固め、加えてこんなことも語っていた。
「日本のトップ選手が来てくれた、というのは特別な説得力になると思う。だからこそ、今年はチームとしても、個人としても成績を残さないといけないですよね」
その言葉通り、チームを10年ぶりのリーグ優勝に導いた。最多安打、ベストナイン、ゴールデングラブと個人タイトルも獲得した。
侍ジャパンの一員として、日米野球にも出場。打率3割5分とメジャーの投手を打ち込んでみせた。
「それにしても、ここまで野球を知らない子たちに教える機会というのは、なかなかないです。野球にとっての良い機会にもしたいのですが、個人的にもいろいろ考えるきっかけになるんじゃないかと思っています」
野球教室は翌日午前10時から始める予定だった。
練習メニューをメモする手を止めて、秋山は語りだした。
「日本の野球も岐路にあります。中学校で野球部に入る生徒が激減しているという記事も見ました。これまで以上に、まだ野球を知らない方に対してのアプローチが大事になる。どうやって野球を好きになってもらうか」
スマホをぎゅっと握りしめ、ポツリと言う。
「そのためのヒントが、ここで得られるような気がするんですよね」
初の野球教室
11日午前10時。
雨季が終わりかけているプノンペンは、晴天に恵まれていた。
「原付の台数、すごいですね。みんなこれで通学しているんだ」
驚く秋山を乗せたバンが、高校の校門をすり抜ける。
秋山の野球教室、最初の会場は高校の敷地内のグラウンドだった。
侍ジャパンでも主力の一角を担う、背番号55。
U-16カンボジア代表の選手たちが、目を輝かせてグラウンドに迎え入れた。
しかし、ビビッドな反応は、そこまでだった。
他に集まった小学生の子供たちは皆、秋山のことは知らなかった。
ベースランニングの指導から、野球教室は始まった。
一塁を駆け抜ける際、ベースの右側を踏むようにと、秋山はベース左側に足を置いた。
「おうふ!」
いきなり、足を踏まれた。
スパイクでなくて良かった。苦笑いしながら、自分の足と小さな三角コーンを置き換える。
それでも、秋山はうれしそうだった。
パリ・サンジェルマンのレプリカユニホームを着た少年が、真剣な表情で野球のベースランニングをする背中を見て、思わず微笑みがこぼれる。
「こちらで野球は難しいですね」
世代別の代表選手たちは、熱心だった。
キャッチボール、ノック、そしてバッティングと、秋山のアドバイスに真剣に聞き入った。
「吸収力、ありますね!」
教える横顔がほころぶ。
しかし、野球を知らなかった年少組の方は、そうはいかなかった。
使用した人工芝のグラウンドは、サッカー仕様のものだった。
サッカーボールを見つけた子供たちは、グローブとバットを置いて、PK戦ごっこを始めてしまった。
ちょうどその時、午前中の授業を終えた中学校の生徒たちが、グラウンドを囲む校舎から出てきた。
ほとんどが、野球教室の様子を気にも止めずに立ち去っていく。現地コーディネーターがつぶやく。
「サッカーの日本代表の誰かがこんな場所に現れたら、授業そっちのけで生徒が集まって、大騒ぎになるでしょう。秋山さんは日本国内では、サッカー日本代表の選手たちと同じか、それ以上の知名度があると思います。でもこちらでは…難しいですね」
「打てた!打てたじゃん!」
見かねた世代別代表の選手たちが、急いで年少組にバッティング練習の場を譲った。
現地語でまくし立てて、とにかく打ってみるように促す。
持ち方はめちゃくちゃだ。
スタンスも、なかなかバッティングネットの方を向いてくれない。
懸命に教える秋山に気を使い、年長組は「いいから振れ!」とせかす。
その波打つバットの軌道を読むようにして、秋山はトスを上げてみた。
カキン!意外なほどの快音が、グラウンドに響いた。
硬かった少年の表情が、一気にほころんだ。
「おお!打てた!打てたじゃん!」
秋山が喜ぶと、周囲の選手たちもこぞって褒めたたえる。
鼻を膨らませ、肩をそびやかせるようにして、少年は次のトスを求めた。
「よし、いこう!」
トスを上げる。快音が響く。
さっきまでサッカーに浮気していた年少組が、目を輝かせて順番を待ちだした。
活気は人を呼ぶ。
いつの間にか、グラウンドの周囲には昼休みの高校生も集まっていた。
カンボジアだからこその「学び」
「日本での野球の教え方って、ちょっと堅苦しいところがあるのかもしれないですね」
会場から引き揚げるバンの後部座席。
秋山は自分の考えを確認するように、静かに語りだした。
「これを知ってほしい、これは分からなくちゃいけないと伝えることは、それに付いてこられない子供たちをそぎ落としてしまう側面があるのかもしれません。さっきの年少組のような子供たちを」
「それでは、本当の意味で競技の裾野を広げることにはならないかもしれない。裾野が狭い山は小さい。裾野が広くてこそ、山は高くなるものですよね」
野球の認知度が高い日本国内では、決して体験できない状況からの学び。
思っていた以上に、カンボジアでの野球教室から得るものは大きかった。
「まだ何度か、こっちの子供たちに教えられる機会はあるんですよね?ある程度の確信を得られるように、しっかり盛り上げてみたいですね」
世界遺産にも、野球を重ねる
プノンペンから空路で40分。
滞在期間中、秋山は世界遺産、アンコール遺跡群にも足を延ばした。
「これは…すごい。表現のしようがない。自分のボキャブラリーの貧しさを痛感しますね」
そんなことを言いながら、遺跡の奥へ、奥へと進んでいく。
「こんな大掛かりで、精緻なものが900年前に造られたわけですよね。信じられません。当時、これに携わった人みんな、計画を聞いて本当に完成すると信じられたのか」
しばらく考え込んで、またつぶやく。
「でも、信じていたからこそ、完成したわけですよね。信じて、まずは1個の石を置く。何事も、そこからしか始まらない。大変だからといって取り掛からなければ、何もできない」
野球も一緒。そう思うと、考えが進む。
「設計図、どんな方が作ったんですかね。これだけの規模の建物ですから、みんなと完成時の全体イメージを共有しておくことが、ものすごく大事だったんだろうなと」
「どこか一角だけ立派にしたり、大きくしたりしても、全体のバランスが崩れて理想の完成図から離れてしまう。野球もそう。自分が何を目指すのか。チームのために、試合で何を表現したいのか。それを明確に持って練習しないと、自己満足に陥ってしまう」
回廊の壁に彫られたレリーフを見つめながら、言葉を紡ぐ。
「僕のプロとしての打撃は、100%の力を打球に伝えることを捨てたことから始まりました。内側からバットを出して、少しカット気味にボールの右側をたたいて、打球を左方向に飛ばす。ヘッドも下がり気味になるので、ボールに伝わる力は60%くらいになるでしょうね」
「スタンドに届くはずの打球も、60メートルしか飛ばない。でもこの距離こそ、ヒットになる距離なわけで。数多くヒットを打つ。出塁率を上げて、チャンスをつくる。こういう完成図に合わせるなら、気持ち良く飛ばすことなんか必要ないんです」
何度もうなずいていたが、ふとわれに返り、苦笑いする。
「これだけ偉大な世界遺産を見ていても、つい野球のことを思ってしまう。無粋ですよね。僕はホント、野球の他に趣味もない、無粋な人間なんです」
フラッシュモブ式教室、成果はいかに…
最後の野球教室の場は、プノンペン市内の中心部にある小学校だった。
にわか雨の中を走るバンが、狭い校門をくぐって止まった。
校庭には、誰もいなかった。午後の授業中だという。
休み時間に少しでも交流できれば、とダメ元で設けられた訪問先だった。
同行のスタッフは「時間も限られている。どこかの教室に生徒を集めて、野球用品の贈呈式だけに絞っては」と切り出した。
合理的な提案だった。だが、秋山は即座にはうなずかなかった。
どうしても「確信」を得たかった。
「無理かもしれませんけど、一応、バッティングネットを張っておきましょうか」
やがて、授業終了のチャイムが鳴った。
「休み時間、15分しかありません!」
「打ちます!」
フラッシュモブのように、秋山の野球教室が始まった。
スタッフにトスを促すと、居合抜きのように、バットを一閃させる。
今回だけはと、普段の「60%インパクト」ではなく、100%の力をボールに伝えた。
しかも、いつもと違う金属バット。甲高い快音が、狭い校庭に響き渡った。
休み時間の小学生たちが、一斉に集まってくる。
間髪入れず、通訳を介して呼び掛ける。
「やってみたい人!」
秋山はあっという間に、押し寄せる子供たちの波にのまれた。
あのティーを1年置かせてもらえたら
帰りのバン。車中はしばらく、祭りの後の静寂に包まれていた。
「カオスだったね」
秋山が一言、言葉を発すると、同行のスタッフたちもせきを切ったように、それぞれ「15分間」を熱っぽく振り返りだした。
今回はティーの上に固定したボールを打つ形を取った。
トスされたボールを打つ形よりも、さらに多くの子供たちが簡単に打てるようになった。
最初の子供がきれいなライナー性の打球を飛ばし、秋山とハイタッチをして喜び合った。
それを見て、さらに多くの子供たちが身を乗り出し、競って挙手した。
「ハイタッチって、いいですよね。言葉が通じなくても、感情を共有できる」
「もっと言えば、スポーツはすごくいい。ここで初めて会った、言葉も通じない子供たちと、こんなにも喜びを共有できるんですから」
快音。称賛。ハイタッチ。
それらが繰り返されるうちに、あっという間に15分がたった。
始業のチャイム。生真面目なカンボジアの小学生たちは、未練気な様子を見せつつも、一斉に教室へと引き揚げていった。
飛び入り野球教室は、こうして幕を下ろした。
校長にあいさつをしたり、野球用品を贈呈したりと、秋山はしばらく校内に滞在していた。
そろそろ引き揚げようと、校庭に戻る道すがら、あることに気が付いた。
この日最後の授業も終えた児童たちが、まだ片付けられていなかったティーとネットを使って、バッティングを試みていた。
その光景を思い出し、秋山は目を細めてうなずく。
「野球の楽しさに、気付いてもらえたかもしれませんね。もしもあそこに、あのティーを1年間置かせてもらえたら、本当に野球を始めてもらえるかもしれない」
いつか「西武プノンペン線」を
帰国便に搭乗する、プノンペン国際空港へ向かう道。この日も、市街地の渋滞はひどかった。
だが、感慨にふける秋山には、ゆっくりとした車速が好ましかった。
「校庭に置いたティー1本。それが、カンボジアに野球が広まるきっかけになってくれたら、本当にうれしいですよね」
そして、夢はさらに膨らむ。
「僕が鉄道会社が親会社の球団でプレーしているということも、縁になったらいいですね。今後もカンボジアと西武が、野球を通じて関係を強める。そのうち、この渋滞を解消するために、西武鉄道がここに鉄道を敷く」
「西武プノンペン線、なのかな?そうなったら、0キロポストは、あの校庭のティーってことになりますかね」
酷暑の野球教室の疲れからか、いつしか秋山は車中でまどろんでいた。
だが、あの15分は夢ではない。
その瞬間、野球は確かに、カンボジアの子供たちの心をつかんでいた。
【企画・撮影・文=塩畑大輔(LINE NEWS編集部)、取材協力=西村重明さん(カンボジア野球連盟)、埼玉西武ライオンズ】
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