今季は開幕が延期になったため実現しなかったが、本来は毎年4月15日、MLBでは各球団の選手が一斉に背番号42のユニフォームを身に纏う。ジャッキー・ロビンソン・デー――1947年のこの日に、20世紀初の黒人メジャーリーガーとしてロビンソンがドジャースからデビューしたことを記念してのものだ。白人球界に楔を打ち込んだロビンソンは、有色人種/マイノリティの社会的地位向上を目指す運動のシンボルとなり、アメリカ史における20世紀の最重要人物の一人とまで目されるようになっている。
だが、ロビンソンは黒人で当時最高の野球選手というわけではなかった。白人球界から隔絶された有色人種だけのプロ野球リーグ、ニグロリーグではロビンソン以上に実績を残していた者が何人もいた。中でもジョシュ・ギブソンは最大級のスターだった。自身も名捕手であるロイ・キャンパネラは「私が知っている中で最高の捕手、最高の選手」と口を極めて賞賛し、野球史のドキュメンタリー『Baseball』では「ギブソンは〝黒いベーブ・ルース〞と言われているが、〝ルースを白いジョシュ・ギブソン〞と呼ぶほうがふさわしい」と紹介されている。しかし、ギブソンがMLBでプレーする日はついに訪れなかった。ロビンソンがデビューする3か月前に、35歳の若さでこの世を去っていたからである。
「ルースのパワーとテッド・ウィリアムズの技術を兼ね備えていた」(黒人野球の語り部だったバック・オニール談)ギブソンには、その破格ぶりを伝えるいくつもの逸話がある。中でも一番の傑作はこれだろう。ある日、ピッツバーグでの試合でギブソンが放った打球は、球場のはるか彼方まで飛んで行ってそのまま見えなくなった。翌日、フィラデルフィアでの試合でなぜか空からボールが落ちてきて、野手のグラブに収まった。すると審判はギブソンを指さして宣告した。「アウト! あれは、君が昨日ピッツバーグで打ったボールだ」。
もちろん、事実であるわけはない。だが、それほどまでにギブソンのパワーが凄まじかったことは伝わってくる。ヤンキー・スタジアムで34年に放った一発は、三階席を超えていって同球場史上唯一の場外弾となったという。ギブソン本人は「そこまでじゃない、センターのブルペンを超えただけだ」と否定していたが、この一撃以外にも特大アーチにまつわる伝説が数えきれないほど残されている。36年には年間170試合で84ホームランを打ったとされ、生涯で放った本塁打数は800本とも962本とも言われている。2001年に73本塁打の新記録を樹立したバリー・ボンズも「記録保持者は俺ではなくギブソンだ」と語っている。
1911年にジョージア州で生まれたギブソンは、子供の頃にピッツバーグへ移り住んだ。15歳で学校を中退、工場で働きながらセミプロ球団に参加すると、たちまちその名を知られるようになった。29年には1歳年下のヘレン・メイソンと結婚するが、新妻は1年半後に双子を生んだ際に命を落としてしまう。ギブソンを見舞った最初の悲劇であった。
30年7月、ギブソンがニグロリーグの試合を観戦中、地元のホームステッド・グレイズの捕手が負傷。監督のジュディ・ジョンソン(オーナーのキャム・ポージーだったとの説もある)が観客席に呼びかける声が聞こえた。「ここにジョシュ・ギブソンは来ていないか?」。のちに野球殿堂入りした名選手ジョンソンの耳にも、地元の逸材の噂は届いていたのだ。自ら名乗りを上げ、用具を借りて出場したギブソンは翌日グレイズと契約した。これまたどこまで本当の話か分からないけれども、ともあれギブソンはプロ野球人生のスタートを切ったのだった。
ギブソンの並外れたパワーを生み出していたのは、身長185㎝、体重99㎏の恵まれた体格だった。ルースとほぼ同じサイズで、当時としては相当大柄。ややクラウチング気味の構えで、足を大きく踏み出さずコンパクトなスウィングだった。ニグロリーグの名選手クール・パパ・ベルは「大振りせず、ただボールにバットを当てるだけで、ラインドライブがどこまでも飛んで行った」と言っている。捕手としての技能は評価が分かれ、フライの捕球に難があったようだが、強肩だったという点では意見が一致している。
32年にはセミプロ時代の古巣であるピッツバーグ・クロフォーズに移籍し、黒人球界最大のスターだったサッチェル・ペイジとバッテリーを組む。メキシコやキューバ、プエルトリコの球団でもプレーし、41年はメキシコで33本塁打。2位と3位の打者の本数を合わせたよりも多い数字だった。のちにメキシカン・リーグを創設したホーヘイ・パスケルのチームにいた時には、4打数4安打で試合を終えたのに「どこか調子でも悪いのか? 1本もホームランが出なかったじゃないか」とパスケルに尋ねられたという。
ギブソンとルースを比較した時、一番の相違点は性格だったろう。大口叩きで派手好きなルースとは正反対で、ギブソンは謙虚だった。ニグロリーグで活躍したのちジャイアンツに入団したモンテ・アービンは「有名人になって注目を浴びるようになっても、うぬぼれるような人ではなかった」と言う。だが30歳を超える頃からアルコールへの依存が深まり、生来の快活さは影を潜めていった。移動中のバスや、ときには試合中でも酒を飲むようになり、神経症の兆候も見え始め、施設への入所を繰り返した。
その頃、交際していた女性が麻薬常習者だったため、ドラッグの影響を疑う者も多かったが、黒人野球研究家のジェームズ・A・ライリーによれば「ギブソンが麻薬に溺れていたという確かな証拠はない」とのことで、おそらく真の原因は43年に判明した脳腫瘍だったと思われる。当然、手術を勧められたが、ギブソンは障害が残るのを恐れて拒み、身内以外にはその事実を隠してプレーを続けた。結果的に最後の年となった46年には屈んで捕球することも難しくなっていたが、それでも打率.397、17本塁打の好成績をマークしている。
47年1月20日にギブソンは亡くなった。劇場で倒れて病院に運び込まれ、脳出血が死因だったとも、実家で家族と過ごしている最中に心臓発作で急死したとも言われている。史上最高の打者の一人であるにもかかわらず、死の様子すら定かに伝わってはいないのだ。ドジャースがロビンソンと契約してから、1年3か月後の出来事だった。
ニグロリーグの試合は公式記録が残されていないため、ギブソンが実際にどれだけの成績を残したかは正確には分かっていない。野球殿堂の調査によって判明した範囲では、ニグロリーグでの通算1825打数で打率.350、107本塁打、351打点となっている。リーグ戦以外の試合は草野球レベルの対戦相手も珍しくなく、海外での試合を含めても本当にホームランを800本も打っていたかどうかは疑問がある。おそらくは、714本塁打のルース以上の打者だったのを強調するための数字であったのだろう。もっとも、実際の本数に大した意味はない。誰の目にもギブソンが素晴らしい打者であった事実は変わらないからだ。
19世紀のメジャーリーグでは、わずかながら黒人選手が在籍した例はあった。通説で最初の黒人メジャーリーガーとされるウォーカー兄弟の他にも、1879年に1試合だけ出場したビル・ホワイトが黒人だったとの説も最近では有力になっている。
20世紀以降、各球団による"紳士協定"で黒人選手はメジャーだけでなく、傘下のマイナーリーグからも完全に排除された。しかし、メジャーで十分に通用する実力者が何人もいるのは広く知れ渡っていた。かつてはオフシーズンになると、メジャーの選手たちが自主的にチームを組んで各地を巡業し、そこでニグロリーグのチームと試合を行うことも珍しくなかったので、その実力を肌で感じ取っていたのだ。
こうした白人チームとの試合で、ギブソンは56打数21安打、2本塁打だったとのこと。何度もギブソンと対戦した殿堂入り投手ディジー・ディーンは「史上最高の捕手の一人」と保証し、通算417勝の大投手ウォルター・ジョンソンも「黒人でさえなければ20万ドル(当時のトップスターの2倍)を出す球団もあっただろう」と残念がった。
ギブソンに興味を示したMLB球団もあった。43年にはワシントン・セネタースが、ギブソンとバック・レナード(黒いルー・ゲーリッグと呼ばれた強打者)との契約を検討。地元のパイレーツや、ビル・ベックが球団買収に動いていたフィリーズも、実現すれば黒人選手を入団させる計画があったが、保守的なコミッショナーのケネソー・マウンテン・ランディスに阻止され実現しなかった。ロビンソンがドジャースと契約できたのもランディスの死後である。
ところで、なぜドジャースGMのブランチ・リッキーはペイジやギブソンではなく、ロビンソンを選んだのだろう? もちろん年齢(契約時にロビンソンは26歳、ペイジは39歳、ギブソンは34歳)も理由ではあったが、それとは別にリッキーなりの計算が働いていた。白人層の反感を和らげる意味でも、最初の黒人選手は形式的に「マイナーリーグで鍛える」必要があった。だがペイジやギブソンは、マイナーリーグからスタートさせるにはビッグネーム過ぎた。またロビンソンは、強烈な野次や執拗な嫌がらせに耐え得る精神力を備えているとリッキーは確信していたが、病気を抱えた身で酒に頼り、精神状態が不安定になっていたギブソンに、同じことが可能だったとは思えない。さらに言えば、もしギブソンほどの実績の持ち主が万一メジャーで通用しなかったら、黒人選手は後に続けなかったかもしれない。ロビンソンが選ばれた背景には、そうした深慮遠謀があったのだ。
黒人メジャーリーガー第1号になれず失望したペイジも、48年にはインディアンスに加入し、ワールドシリーズ優勝に貢献。52年には45歳で12勝し、ニグロリーグでの数々の伝説が真実だったかもしれないと印象付けた。だがギブソンには、そのチャンスすら与えられなかった。
早すぎる死をもたらしたアルコール依存症や神経症が、メジャー入りが叶わなかった失意と関わっているのではないかとの推測もあった。だが、長男のジョシュ・ジュニアは「父はそんなことを気にする人ではなかった」と否定している。もし5年遅く生まれていれば、8歳年下のアービンと同じくメジャーでプレーできていただろうし、10歳若いキャンパネラと同世代だったら、ウィリー・メイズやハンク・アーロンに匹敵する成績を残していたかもしれなかった。そうでなくとも早い段階で脳腫瘍の手術を受けていれば、72年に実現した、黒人ではペイジに次いで3人目となる殿堂入りの栄誉を生きて味わえていたかもしれなかった。
近年では、MLBにおける黒人選手の減少が大きな課題になっている。フットボールやバスケットボールに比べ、野球では黒人ならではの身体能力の高さがダイレクトに生かせないこと、大学野球が盛んでないために、奨学金を受け取って進学できるチャンスが少ないことなどが理由とされる。時代が変われば環境も変わるのだから、仕方ないことではある。だが、過去にはギブソンのように、メジャーでのプレーを渇望しながら果たせなかった多くの黒人選手がいたと思うと、複雑な思いに駆られる。
【プロフィール】
ジョシュア・ギブソン。1911年12月21日、ジョージア州生まれ。強打の捕手としてホームステッド・グレイズ、ピッツバーグ・クロフォーズなどのニグロリーグ球団でプレー。一説によれば通算本塁打は972本、打率は.350を超えたと言われる。40 ~ 41年にメキシコでプレーし、ニグロリーグに復帰した43年から2年連続でニグロワールドシリーズ優勝に貢献したが、アルコール依存症や脳腫瘍を患い、47年1月20日に死去。享年35歳。72年に殿堂入りを果たした。
文●出野哲也
※『スラッガー』2019年5月号より加筆・修正の上、転載
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