午後3時36分40秒─この時刻で止まった大川小の時計
母・妹・祖父との別れ
「中学卒業とか、高校卒業とか、節目のときには友達のことを考えましたね。“生きていれば、どこの高校へ行ったのかな?”“頭がよかったのかな?”って。高校へ進学したとき幼稚園の同級生と再会したという友達がいました。でも、僕には付き合いの長い友達がいません。石巻市内の別の場所に引っ越したから、中学校では小学校の同級生はいないんです。
「震災当日は母親の誕生日で前日にお祝いをしていました。そのとき、焼き肉をしたってことしかもう覚えていません。母は寝込んでいたので、甘えた記憶がないんです。おじいちゃんっ子、おばあちゃんっ子でした。
震災で3人が亡くなったけど、僕には何があったのか理解できないでいました。当時は、毎週毎週、誰かの火葬があったので麻痺していたんです。亡くなった実感がなかった。いちいち悲しんでいたら身がもたなかったんです」
忘れることも必要
「1月20日は妹の誕生日。今年もいつものように親父がケーキを買ってきました。おばあちゃんと3人でいつも“生きていたら、何歳になるね”という会話はするけど、悲しくなったりはしません。僕にとっては、妹は小3で止まっていて成長した姿を想像できない。どういう性格だったというのは覚えているけど、もう声も思い出せない」
「ビデオは震災の4~5年前のものなので、震災当時の声とは違います。家のあった場所に行っても思い出せないのと同じようなもの。思い出せないのは悲しいけど、忘れることも必要だと思う。アルバムをめくったときに思い出せればいい」
「時間がたてばたつほど、震災前のことを思い出してつらくなりました。それまでも思い出さないわけではなかったんですが、極力考えないようにしていたんだと思う」
「言うのがつらい時期もあった。それに気を遣われるのも嫌だったので、嘘をつくわけではないけど、被災して、家族を亡くしたことを知られないようにしていた」
「校舎を保存してほしい」
《大川小はいつも地域の中心だった。学校行事があるたびに地域の人が集まり、地域で盛り上げていた。僕は「ここに生まれて本当に幸せだ」と思っていた。しかし、震災により私たちのふるさと、友だち、先生方、大好きだった地域の方々がたくさん亡くなった。こんな思いを二度と他の人に味わってほしくない》
震災に振り回されそうな自分
「ひとりで大人に話していたときもありますが、批判された。そんなときに大川小学校出身の先輩たちが協力してくれたんです。人前で話すようになると賛同してくれる人も出てきて、間違っていなかったと思いました」
「話し合いがあるというので、僕らの意見を聞いてくれるのかと思ったけど、違った。市側の提案(歩道から校舎が見えないように隠すなど)についてどう思うか、と聞かれただけだった。中3の受験シーズンに僕らは意見を出し、保存が決まった。それから3~4年。その間、市は何をしていたんだろう」
「中学3年くらいまでは意識していたけど、高校では部活が忙しかったし、特に意識していない。毎年、同じですよ」
「津波の恐ろしさや命の尊さを訴えたい」
「漠然と“身体を張って人を助けたいので警察官になりたい”とは思う。でも、将来のことをちゃんと考える時間がなかった。震災のことから離れて地元を出たい反面、校舎の保存のことがあるので地元にいたい。
また、ひとり暮らしの経験がないので県外に行きたいという気持ちと、おばあちゃんが元気なうちはそばにいたいという葛藤もある。このままだと震災に振り回されそうになる」