商船三井/「BLITZ」所属 倉橋香衣さん 撮影/齋藤周造
「ほらみんなで囲め、囲め!当たって、当たって! 残り20秒。頑張れ~!!」
つらいときも笑っている
「最初はただ動くのが楽しかったんですが、そのうち戦術があることを知り、どんどんハマっていきました」
「敵の動きを先読みして、うまくその進行を阻んで、味方がゴールを決められたときは、すごくうれしいんです」
「最初は女子選手が入ることのメリットで代表に呼ばれたのが大きかったと思いますが、上達も早いですし、彼女自身も勉強熱心なので、いいプレーヤーになっていますね。この競技は当たりの激しさが注目されがちですが、ローポインターの選手の動きが重要で、海外でも司令塔の役割を果たしています。最終的には彼女もそうなっていくと思っています」
「いつもニコニコしてつらいときでも笑っているので。試合中は“歯を見せるな”とか叱られたりもしてましたけど、前歯が乾いて戻らないという(笑)。それぐらいいつも笑ってましたね。スキルでもメンタル面でもチームになくてはならない存在です」
「ケガをするまではパラリンピックを見たこともなくて、どんな競技があるかも知りませんでした。障害者と関わったこともなく、何もわかっていなかったんです。自分がこういう経験をして、さまざまな障害がありながら暮らしている人のことを知り、学ぶことがいっぱいで、世界が広がったなと感じています」
ひとり暮らし、車で通勤
「会社は私がまだラグビーを始めたばかりで、結果が出ていないときに採用を決めてくれました。大学卒業後も神戸の実家に戻らないでラグビーを続けると決めたので、仕事と競技を両立させる願いが叶えられて感謝しています」
週1日は在宅勤務で、あとの1日はラッシュを避けた時間帯に約2時間かけて車で通勤する。愛車はアクセルもブレーキも手動で操作できる特別仕様車で、屋根の上にたたんだ車いすを積んでいる。
「社会的な要請で義務的に整備するということではなく、倉橋という社員がいますから、少しでも快適に過ごせればいいと思いますし、ほかのお客様がいらしたときや同じような社員が入ったときに利用しやすいように改善しています」
「人にものを渡すにしても、自分が何分もかけてゴソゴソやるより、ここ開けてくださいと言ったほうが、その人の時間も取らないし効率がいいとは思うのですが、できないことではないから、頼るべきか迷うんです」
「もっと気軽に考えればいいんでしょうけど。いちばんいいところを探っています」
「ここまでは大丈夫だからいいですよというようなことも、最初は誰もわからないですけど、繰り返していく中でわかっていくんでしょうね。相手を慮りすぎると疲れてしまいますし、障害者だというだけで極端に気を遣いすぎるのもよくないですしね」
「人それぞれ境遇も違い、ぶち当たる壁も違うと思うんですが、倉橋のような壁を乗り越えてきた人の話を聞くと、なんか自分もやれるかなあという気持ちになれますよね。
'11年4月24日、頸椎を脱臼骨折
「水泳やバレエなどほかの習い事もさせてもらったんですが、本当に好きな体操しか長続きしませんでした」
「体操は同じ練習を何回もして技ができるようになっていくんですが、ラグビーも同じで、ボールにタッチする練習を何回もして上達していくんです。それが大切なことは自分でわかっているので、何においても毎日コツコツやることは、苦にならないのかもしれません」
「体操でトランポリンを使った練習をしたことがあって、怖かったり苦手意識があったんですが、体操と違った宙返りのやり方があったり、技ができるのがうれしくて、面白くなっていきました」
「東日本大震災の影響で大学がずっと休校だったことと、腰を痛めていて全然練習ができてなくて、出場するつもりはなかったのですが、見ているだけでは楽しくないからやはり出ることにしたんです」
「次の瞬間、バーンと倒れて、呼吸が苦しくなりました。それからは意識が飛び飛びなんですけど、“ゆっくり呼吸しろー”というのは聞こえてて、フーフーと息をして少し落ち着いてきたら、救急隊員に“いま脚を触っているんですけど、わかりますか?”と聞かれて、わかりませんと答えました。首をやったら一生歩けないのは何となく知っていたんですけど、感覚がなくなるということは知りませんでした」
「そのときはまだよく状況がつかめずにいました。お母さんは香衣がトランポリンをしていたことやその前に体操をさせていたことがダメだったのかなとご自身を責めていらっしゃいました」
「母には“体操をやっていたおかげで生き延びたんや”と言いました。当時は身体も太ってて、首も太くてムキムキしてたんです。あの体重で頭から落ちて生きていられたのは、首の筋肉を鍛えていたおかげなので、本当に体操をやっていてよかったと思いましたから」
前向きになれた理由
「頭を起こすだけで血圧が下がってしまうので、少しずつベッドの角度を上げて慣らしていって、ベッドの上に座れるようにしていきました」
「最初、なんて言ったらいいのかわからなかったのですが、香衣が“もう足は動けへんかも”なんて笑いながら言ってて、どうしようというようなことは一切言わなかったので、私や周りが泣いちゃダメだなと思いました」
「私が悲しい気持ちになる前に香衣がもう前を向いていたので、彼女がすることを応援しようと思いました。一緒に泣いたことも香衣が泣いているのを見たことも1回もないです」
「ケガをしたのは腰が痛かったり練習をしていなかったということもありますが、前日にバイト先の人に誘われた飲み会に顔を出して、寝不足で試合に臨んだという、選手としてダメな姿勢も要因だったと思っています。あとで、その方たちから“自分たちが呼ばなければよかった”と言われたんですけど、私が決めて行ったわけだし、あんな過ごし方をしてたら、そりゃケガをするだろうなと。
それを後悔するぐらいなら自分が動けるようになればいいと思ったんです。自分の好きなように好きな生活ができれば、たぶん後悔はしないだろうなと。リハビリとか今できることをしっかりやっていこうと思いました」
「当院にいらしたときはまだ上手に車いすにも座れない状態だったんですが“私はひとり暮らしをするんや”という明確な目標をお持ちでした」
「ひたむきな努力家で頑張りは抜きん出ていましたね。ひとりで車いすに乗れるようになると、ほとんど部屋には戻らずに広場でずっとこぐ練習をしていました。指もなかなかうまく使えませんから、訓練室でハサミを使うなど細々としたことの練習をずっとしていました。その姿はやはり目立ちますし、周りの人に影響を与えていましたね。
あの子が頑張っているから自分も頑張ってみようかというふうに、みんなを勇気づけていました」
自分が好きな服を着たい
「工夫をすればいろいろなことができるようになるんです。倉橋さんも自分でできることがどんどん増えて、周囲と励まし合う中で、本当の明るさや強さを取り戻していったのではないかと思います」
「周りも私のことをあの人は何であんなヘラヘラしてるんだろうと思ったはずです。でも、そうやって交流する中で、みんなで頑張れたかなと思います。障害者同士、はたから見ればどっちも同じに見えるかもしれないですけど、自分たちにしてみたら、“あの人のほうが手がきくからあれができるんや”とか違いがあるんで、こんな手で助け合いながら、わちゃわちゃやっていましたね」
再び大学へ、そして母の反対
「授業でメモを取るのもついていけない感じでした。同級生たちはとっくに卒業してしまっていて、知らない人の中に3年遅れて入りましたし。最初のうちは大学の元の友達に“授業が追いつかない!”とか“周りにこれ頼みたいけど迷惑かなぁ?”なんてこぼしていました。
でも私は昔からなんやかんやと愚痴っては結局、自分で解決していることが多かったので、友達もまた言ってるなくらいで聞いててくれて(笑)。私としては話をするだけで満足して、また次の日から元気になれました」
「だんだん一緒に過ごしていくうちに友達にもなるから、車で到着したところを通りがかった人に一緒に教室へ行ってもらったり、6階までみんなで担いでもらったりしてました。教授に“お前、いろいろ引き連れて桃太郎みたいやな”と言われてましたね(笑)」
「試験は先生に相談して、筆圧が弱いのでボールペンで書かせてもらったり、車いすが無理な教室のときは別室で受けさせてもらったりしましたが、ほとんど普通に受けることができました。でも授業に出席できたのは、本当に周りのおかげだったと思います」
「中途半端な気持ちでやってほしくなかったですし、反対されても絶対続けようという気持ちがないと無理だと思ったので、何があっても反対しようと決めました。本当は地元で一緒に暮らせたらと思っていましたし。そうしたら自分で就職先も決めてきたんです。これというものがあったら、そこへブレずに向かっていく子なので。その点は何も心配してないです」
「実際こういう生活をすると動きだしてからは、やってることに反対せず応援してくれています。ありがたいです」
壁のない社会へーー
「自分でやれることは自分でやると貫き通しているのは、いい意味で意地っ張りだからかなと思います。口にしたってしかたないような愚痴をお互いに言い合うこともありますよ。でも、それでスッキリするので。来年に向けていろんな人の力も借りながら、できる限り彼女をサポートしていきたいと思っています」
「試合に出られなかったりすると、彼女はせっかく応援してもらっているのに申し訳ないと思うようです。でも、そういうときは焦らずにきちんと身体を休めてほしいと思うんです。
「チームメートが練習場所を探してくれるんですが、車いす競技は床にキズがつくという理由で断られることが多いんです。実際にはキズはあまりつかなくて、タイヤの跡はつきますが、それはふいたらきれいになります」
「みなさんこうしたらいいでしょう! なんて、自分から何か発信するということは考えてないです。私はただラグビーが楽しくてやってるだけなので、一生懸命な姿を見て、元気が出る人がいてくれたらうれしいです。そうして来年に向けてパラスポーツ全体が盛り上がって、'20年以降もそれが続いていったらいいと思っています」
「障害とか健常とか関係なく気軽にと思うんですけど、実際、私が健常者で、車いすの人を見かけたとき、声をかけるかといったらわからないし。自分に本当に余裕があるときに、ひとりの人として普通に接してもらえたらいいと思うんです。
声をかけてくれる人って、何か手伝いますか? と聞いて、大丈夫ですと言ったら、サーッと去っていくみたいな感じなんで。そういう人はたぶん車いすとか関係なしにただ気になって声をかけてくれてるんだと思うと、そういうのこそが壁がない状態なのかなと感じています」
「自分の好きなように生きられたら後悔はしない」と貫いてきた倉橋さんの進む道。その先に広がるのは、障害の有無にとらわれないノーサイドの世界。それは東京2020から続いてゆく。
取材・文/森きわこ(もりきわこ)ライター。東京都出身。人物取材、ドキュメンタリーを中心に各種メディアで執筆。13年間の専業主婦生活の後、コンサルティング会社などで働く。社会人2人の母。好きな言葉は、「やり直しのきく人生」