美空ひばりさんと関口範子さん。昭和36年から付き人として身近に仕え「お嬢さん」「おのり」と呼び合う仲だった
「病室の表札をどうしようか」
「九州から東京に戻る際にはヘリコプターを利用したのですが、エンジンとプロペラの轟音が機内にも響きわたり、お嬢さん(ひばりさん)はじっと目をつぶっていらっしゃいました」(関口さん、以下同)
「なので、病室の名札をどうしようか、という話になりました」
「名札が加藤だと、すぐわかってしまうからどうしようかと。お母さん(故・喜美枝さん)の旧姓・諏訪でも、マスコミの人には気付かれてしまうしね、というような話をしていた時に、お嬢さんが高倉健さんのことを言い出したんです」
「お嬢さんが“健ちゃんの名前は小田っていうのよね”とおっしゃるので、“そうです。高倉健は芸名で、小田剛一さんという本名だったと思います”と私が答えたら、“じゃあ、健ちゃんの名前から小田にしようか”ということになって、小田という名札をつけてもらっていたんです」
最後の電話で伝えたかったこと
「お嬢さんから“健ちゃんに電話して”と言いつかりました。ところが、高倉さんは歯医者さんに行かれてたらしく留守だったんです。高倉さんは後日折り返してくださったんですけど、その時はお嬢さんの具合が悪くなっていて、電話に出られなかったんです」
「それから毎年欠かさず、お嬢さんの命日にお線香が届くようになりました。高倉さんはずっとお嬢さんのことを気にかけていてくださっていたんです。
お墓参りにも行ってくださっていたようで、和也さんがばったり会って“お前も頑張れよ”と励まされたこともあるとおっしゃっていました」
「いつものように1人でふらりといらっしゃって、“いいよ、出迎えなんていらないからね”と、本当に気さくなんです。階段のところに水が流れる『川の流れのように』という展示のコーナーがあったのですが、“ここはお嬢を感じるなぁ。鳥肌が立っちゃうよ”と、おっしゃっていました」
「“あれは何の用だったんだろう?”と何度も聞かれたんですが、私もどうお答えしたものかわからなくて……。でも、やっぱり“名札”のことだったと思うんです。お嬢さんはそのあたり律義だから、直接ご自分でお伝えして“勝手に名前を使ってごめんなさいね”と言いかったんじゃないかと思います。
こんど高倉さんに会ったら、このことをお伝えしなければ、と思っていたのですが、叶わないまま、高倉さんも亡くなってしまいました」